《取るべき道》    文責:風姿 1996/10/10
この国の政府は戦争責任を認めようとしない。
戦犯が再生日本の政治中枢に居残った為だ。
自民党はその最たるものだ。

「靖国の英霊」即ち、戦没職業軍人が
「国家の為に戦い万感の想いの中で死んでいった事を考えると安易に戦争責任は認められない」等と平然と言う。

この様な主張には次のように、反論する。

彼らの多くは国家の為に戦ったのではない。
自らの家族を守る事になると自らに言い聞かせて戦いの場に臨んだのである。
軍隊・戦場という非常な状況の中で、心身ともに疲弊・洗脳され、殺人という異常行為の遂行に向かったのである。
彼らをその様な状況に追い込んだ事自体が戦争責任なのである。
その背景に政治・産業・軍事のエゴがあった事は否定できない。
そして、これら政・産・軍は尚戦争責任を果たしていない。
それどころか、靖国の英霊を再び自己保身のために再利用しようとしているのである。
かの英霊達の祭祀を本気で考えるなら、彼らを家族の元に帰すべきである。
国家の首枷から解放すべきなのである。

一方、国民は戦後教育の中で、文部省管理下にあり、
戦後世代はこの事に付いて何等公的に判断材料を与えられる事はなかった。
豊かな暮らしを追い求め、その脳天気ぶりを世界にさらしている。

言いぐさは、「そんな事知りません。教えてもらっていません。」
知る努力をしたか否か。その事は不問である。
この様な態度も又、文部省により培われたものだ。
教科書検定は廃止すべきである。教科書の選択は教育委員会ではなく
学校現場の責任で行うべきである。

スポーツ・音楽が、この脳天気ぶりを助長するために動員され、
テレビが視線を逸らす機能をする。

もっと個人責任を追求すべきである。
機関責任を追求するのでは、責任所在が曖昧になる。
機関・組織はその中枢にある人物の志向の元に動くのは歴史の真実である。
それ故、その様な中枢人物の個人責任を追求すべきである。

第1外国語をハングル語にし、第2外国語を中国語にする程度の選択は行われて良い。

神功皇后は糾弾されるべきである。  豊臣秀吉は糾弾されるべきである。
西郷隆盛は糾弾されるべきである。  伊藤博文は糾弾されるべきである。
寺内毅は糾弾されるべきである。    裕仁は糾弾されるべきである。

これ等の命令に従った者達は糾弾されるべきである。

買春旅行をする日本人は個人名を明らかにして糾弾すべきである。
アジアの諸国を経済搾取する企業は、その実体を糾弾すべきである。

オリンピックで日の丸を揚げよう等という言いぐさは、
国家主義・帝国主義の残滓以外の何ものでもない。

戦争責任を取るとは、具体的には何か。
歴史は戻せない。死者は生き返らない。心の傷は癒せない。
では、状況を考える時、豊かな日本であるならば、
日本軍の占領を受けた国の人々が、日本人と同じレベルの経済力をつけるまで、
紐付きではない無償の経済援助を行う他はない。
あるいは日本人が彼らと同レベルまで貧しくなる事である。

個人レベルでは、この主旨の元にアジアからの輸入品を買う事である。
欧米の高価なブランド品を買う前に、無名のアジア製品を買うべきである。

日本の経済力や技術力を誇る事は、すべきではない。
侵略行為により、彼らの経済的基盤を根こそぎ奪い去ったのであり、
彼らの目でみれば、現日本の経済力は彼らの犠牲の上に成立しているとしか映らない。

この様な歴史背景・経済背景で暮らしている以上、日本の戦後世代に責任無しとは言えない。

戦争責任を果たし切るのは、何時か。
それは日本が判断すべき事ではない。他国の国民が、その民意として
「もう充分である」と告げてくれた時に、果たしきるのである。
現憲法の改正問題は当面議論の対象とするべきではない。
押しつけ憲法等という右翼の主張に利用される危険をはらむ。
社会実体・意識実体を変革し、その後議論すべきである。
 ただ、以下の事項は、方向性として堅持すべきである。

アメリカとは距離を置くべきである。
日米安保は破棄すべきである。
自衛隊という名の軍隊は、規模を縮小すべきである。
アジア諸国で最も小さく弱体なレベルに保つべきである。
軍事力レベルをいつでも他国に侵略される危険性のある程度に落とす事により、
侵略を受けた側の立場・心情を理解し得るものであり、
取るべき外交政策の模索の為の糧とすべきである。他国を侵略した責任は、この上で語られるべきである。

沖縄は、独立国家創設の道を模索すべきである。
アイヌは、自治領を持つべきである。

天皇制は廃止すべきである。
万世一系という主張は、学問的に否定されている。
八百万の神々は現天皇家と何等関係がない。
天照大神とて、現天皇家とは何等関係がない。
天皇制は、政治利用の温床になる危険がある。
既に、法的根拠も無く、天皇を実体的に日本国元首として扱い、政治利用を深めている。
また、マスコミ報道が天皇一族の政治利用を補完しているのである。
〔エネルギー政策〕
 原子力・火力の発電所は閉鎖しよう。新設は認めない。危険すぎる。公開データーの信頼性に疑問がある。

ダムによる水力発電に付いては、現在設置済み分のみ認めよう。但し、新設は認めない。

 エネルギー媒体は電気エネルギーに頼らざるを得ない。
化石燃料には頼るわけにいかない。それ故、風力・及び光発電・地熱発電等を主体とするように転換する必要がある。
 とりわけ実現性の高いのは風力である。
エネルギーの需要見込み上不足するというのであれば、生活を不便にすれば良いのである。
自動車に用いるエネルギー原料は電力又はアルコール燃料にし、ガソリン・軽油は縮小の方向に向かうべきである。
 又、独立型の直流電源の利用を進めるべきである。交流電源に頼るために、巨大発電設備が必要になるからである。
蓄電池以外のエネルギー保存技術の研究を進めるべきである。
〔ゴミ対策〕
缶コーヒー等の自動販売機は最悪である。海・山・河川がゴミだらけである。
ポリ袋・トレイ等のゴミも捨てられ方がひどい。
これらは全て、腐食性材料を用いるべきである。
医療廃棄物・産業廃棄物に対してはもっと処分管理を徹底すべきである。
印刷に用いる微少金属・合成ゴムタイヤも問題が多い。大気や海洋が少しずつ汚染されている。
 ゴミがかくまで安易にかつ大量に発生するのは、尚豊かであるからだ。
もっと貧しくならなければ、この安易さは改まらない。
〔官僚問題〕
 公務員は公僕という意味を思い返すべきである。
国家を腐らせるのは、官僚体質である。生産能力を持たぬにも関わらず、権限の肥大化を志向し、自己増殖する。
国家予算は国民総生産の一割を上限としよう。
ケインズ主義の蔓延が、国家予算を肥大化させ官僚権限の拡大を助長する。
 国家権限を縮小する為に、陳情主義を自己抑制し、地域共同体を自発的に再構築し直す必要がある。
〔国防問題〕
 日米安保・自衛隊問題。
観念論的議論・デマゴギーが横行している。
国を守るとは何か。国家組織を守る事なのか、或いは国民を守るという事なのか。
この様な議論さえ曖昧である。
 国家は国民の為に存在する。軍隊も国民の為に存在する。
国を守るとは、組織を守る事ではない。国民を守る事である。
「大局的判断に基づき、大の虫を生かす為に小の虫を犠牲にする」等と発言した政治家がいた。
国民に大の虫も小の虫もない。この様な政治家に政治能力はない。
軍隊行為と警察行為の区別すら出来ていない政治家さえいる。

かつて日米安保肯定論の論拠とされたソ連の侵略の恐れがあるという議論はソ連崩壊の現在、その論拠を失った。
北朝鮮・中国の脅威論にすり替えられつつある現在であるが、その根拠は無い。
北朝鮮・中国が日本に軍事的に侵攻してくる可能性はほとんど非現実的空論である。
仮にその可能性を考えるとして、その前段階として南朝鮮への軍事行動が起きるはずである。
南朝鮮の完全占領後でなければ日本侵攻は起こり得ない。
北朝鮮と韓国間で軍事衝突が起きた場合、軍事・経済力の比較で、韓国軍の方が優位にある現在
北朝鮮により韓国が占領される可能性は皆無である。
中国・北朝鮮が共同して韓国に対し軍事行動を起こす可能性も皆無である。
地勢条件により、日本が他国の侵略を受ける危険性は現在皆無である。

アメリカは「世界の警察」等と自称し、自国の思い通りにならない国に対して、「人権・核疑惑」等の勝手な難癖を付け、
軍事・経済上の圧力を加え、恫喝行為を続けている。
これはまるでヤクザの行動と同じである。
人権問題にせよ、核疑惑にせよ、先ずはアメリカ内部の問題を問題視すべきである。
黒人問題・インディアン問題・ヒスパニック問題・エスキモー問題
核実験に伴う被爆問題、等、他国を非難する資格などアメリカにはない。
この様に身勝手な国に、軍事基地を提供し続けるなど言語道断である。

親米ではなく、反米でもない、疎米政策をとるべきである。
     ◎                    ◎
さて、以上の論旨に基づく、政治運動を開始しよう。
「心的清貧党」と名付け、党綱領を作ろう。
党員募集はしない。個々人が一人一党で、自己運動をしよう。
前衛党主義・政党政治・代議制の時代は終わりつつある。
〔追記〕98/02/18
 多数決という議決方法は、近年誤解されて用いられている。
多数決による採決を行う前には常に、
議決を多数決で行うことを、議決参加者全員が一致して認めていなければならない。

即ち、多数決による採決に移る前に議長は
「採決を多数決で行います。異議のある方は退出願います」
という宣言を行う必要があるのである。

この手続きが行われない為に、この国の採決には、採決後に必ず「建て前」「本音」の使い分けがつきまとうのである。

この手続き後の採決であれば、議決参加者全員に対して、議決の効果が及ぶのである。

国家における採決は、選挙を含めて、この多数決採決の前提が、暗黙の了解事項とされている。
というのも、議決参加者数(選挙人数)が膨大な数にのぼるため、技術的に不可能であるからである。
これはJJ・ルソーが自然人の概念構成の中で、前提化したことである。
しかし、この国では採決の前提が暗黙の了解事項として認識されていない為、
多種の問題を生み出す原因となっているのである。

教育現場で、特に小中学段階で、この多数決採決の方法と理念をきちんと教えていないから、
国民の政治意識がデタラメになるのである。

議決に参加しない自由が保障されているということは、個人がその社会性を認識する契機となる。
つまり、議決に参加しない者は、その議決を行う社会・組織から退出することを要求されるからである。
17世紀市民革命時期には、この事が強烈に認識されていた。
それ故、共同体意識が崩れることは少なかった。疎外の問題も生まれにくかった。
18世紀・19世紀と移るにつれ、この多数決の前提が曖昧に用いられるようになり、
一方、産業革命とともに地域共同体が崩壊し始め、疎外の問題が生じてきたのである。

一体に、国家において、支配・被支配の関係は、税の徴収者と被徴収者の関係として認識できる。
官僚の横暴・自己肥大化は、本来単なる事務作業員にすぎない者が徴税に関わることにより、
支配者然として錯覚を起こすことに始まるのである。

又、この国では、律令制導入以来「漂泊の民」の定住化が近年まで政策的にすすめられてきた。
定住者でなければ、安定的に徴税の対象に出来なかったからである。
「わだつみ」「さんが」「河原者」「アイヌ」等に対する差別政策は、この様な事情の中で行われ続けたのである。

行政に関わる者は、安易に税制を変更する前に、その使途・必要性、さらに、税の本質に対して
より多くの考察を行う必要がある。
 今の税制は、元来明治政府が戊申戦争で予算を使い果たし、
さらに富国強兵を目指して取り易い所からとる事を第1義にして定めたものである。
国民に納税義務を要求する前に、使途目的不明の場合には、国民には納税を拒否する権利がある
というのが近代民主国家の本質である。

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