《日米安保問題》 |
日米安全保障条約(以下安保条約)は米ソ対立構造の中での産物であった。 太平洋戦争の終戦処理問題に関して、当初吉田茂は、ソ連、中共を含んだ形での講和条約締結を模索していた。 サンフランシスコ講和条約締結締結が、なかなか進まないことに関して、天皇裕仁は吉田茂を宮中に呼びつけ、叱責した事実がある。 この際、ソ連、中共抜きでの講話条約で良いと云うことを指示し、同時に日米安保条約締結を結ぶことも、 指示したのである。 この様な指示の背景には、裕仁とマッカーサーとの会談での、新日本の政治体制を巡る対話があったためである。 この対談において、裕仁はマッカーサーに対し、ソ連の日本進駐に対抗するために、米軍の日本駐留および、 沖縄の米軍統治を提案しているのである。 マッカーサーは、当初、講和条約成立後、米軍撤退を考えていたので、この裕仁の提案に驚きを示している。 この連絡を受けたトルーマンは、渡りに船とこの提案を受け入れたのである。 トルーマンは、ルーズベルトと異なり、スターリンに対して敵愾心を持っていたからである。 裕仁から叱責を受けた吉田茂は、自論の戦後処理方針、即ち対戦国全てとの講和条約締結という方針を変更し、 中共、ソ連、等を除いた、講和条約締結即ち、サンフランシスコ講和条約、及び日米安保条約の早期締結に踏み切ったのである。 トルーマンが何故、スターリンに対して敵愾心を持っていたかと云えば、それはナチスドイツ降伏後の ヨーロッパにおいて、ポーランド問題の処理を巡る対立が背景にあった為であり、戦後の世界支配体制を取り決めたヤルタ密約の問題があったためでる。 即ち、ヤルタにおいて、米ソは世界二分割を密約していたのであるが、 トルーマンは、原爆開発成功により、軍事優位の自信を持ち、ヤルタ密約の破棄、 アメリカ一国による世界支配体制確立を考えるようになっていたのである。 |