《天皇制問題》  文責:風姿
天皇制について考えるとき、先ず政治制度としての天皇の地位と
王家としての天皇家、更に個人としての天皇という存在を、明確に区分しておく必要があります。

天皇家の血統を考えるとき、最も確実なところでは聖武天皇以降でしょう。
やや遡ったとしても、欽明天皇までであり、それ以前の天皇達との血統に関しては、非常に疑わしいのです。
この件は、古代史考の方で考察します。
◎王家としての天皇家
王家としての天皇家は、その王権を強力に示威したことは寡少です。
これは、その成立過程自体が諸豪族の共立関係の中で形成されてきたのであったことを思わせます。
藤原氏の摂関体制を例に取るまでもなく、ほとんど飾り物状態が続けられてきました。
この事が、王権に対する批判勢力を生み出しにくいものとして機能し、それ故長期間に渡って王権を維持し得たのです。
この事は、同時に天皇家を取り巻く貴族層の政治的安定を支えるものでもあったのです。
この様な政治体制は、かなり狡猾に計算されたものであり、おそらくは中国王朝の変転から学んだものであったであろうと思われます。
後漢末において、黄巾の乱が生じましたが、その際に標じられた「王侯宰相いずくんぞ種あらんや」という
文言が、天皇制のありように大きく作用していると考えられます。
それ故、天皇家の出自は隠蔽、神話化され、実体不明にされたものであると考えられるのです。
そして、この事は、記紀編纂課程において、広汎な焚書が行われた事をも窺わせます。

かくして、この様な天皇家のありようが、実際の権力者にとっては非常に都合の良いものとして働き、
ついには、江戸幕末において、反幕勢力によって、担ぎ出される温床となったのです。
◎昭和天皇裕仁の異質性
歴代天皇の中で、昭和天皇裕仁は特異な存在であったのです。
明治天皇は、尚傀儡的存在として、その地位を成立されてきましたが、
近代西欧諸国の絶対君主制から近代国家制度を学ぶ中で、その地位の絶対化がすすめられました。
昭和天皇裕仁はその幼少時から、西園寺公望によって、近代西欧流の絶対君主としての素養をたたき込まれたのです。
大正天皇が病弱であったため、貴族層の裕仁に対する期待感が大きかったのです。
まさしく裕仁は日本の歴史上初めて出現した、生まれながらの現人神、絶対君主であったわけです。
その実相を如実に示したのが、太平洋戦争終結から、現代日本の国家体制形成過程でした。
詳細は別項に記しますが、日米安保体制、沖縄割譲に関して、裕仁はその戦後体制形成過程において、
絶対君主としての強力なイニシアチブを発揮したのです。
◎象徴天皇制
象徴天皇制は、基本的には妥協の産物です。
太平洋戦争終結前、日本国内では戦後処理に関して最も関心があったのが、国体護持即ち天皇制の
維持が戦後において可能かどうかと云うことでした。
これは、1945年2月14日の近衛上奏文と、近衛、裕仁対話に示されています。
この中で、既に敗戦を覚悟し、共産勢力の日本への浸透を最も怖れている事が示されているのです。
これは、ロシア、ロマノフ王朝が、ソビエトによって打倒された際、王朝関係者が殺されたことから、
天皇家関係者は、共産勢力を極度に怖れていたという事情があるのです。
一方、米英に関しては、戦後の米ソ対立を念頭に置いて、日本を戦後資本主義体制側に取り込んでおく
必要があったのです。
この様な、状況の中で、妥協の産物として生み出されたのが象徴天皇制だったのです。
それ故、昭和天皇の戦争責任問題は今日まで不問に付されてきているのです。
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