聖徳太子
聖徳太子はその系譜がおかしいのです。
義兄妹の夫婦から産まれる子は、近親結婚ですから、健常に生育するとは考えられません。
この程度のことは、古代の人達も経験上知っていたはずです。
聖徳太子は、おそらく他の人物を仮託した人物です。
太子の子孫が一人も残らなかったと言うことも、一つの裏付けになります。

作られた系譜では
太子は欽明の直系の孫ですから、以前記したように、欽明同様、仏教を国教とすることにより、
氏族間の争いに終止符を打とうとしたのでしょう。
それが、「和を以て尊しとなす」の言で表されているのだと考えることが出来ます。
つまり、この言は当時の状況を逆説的に表現しているのです。
時代は韓半島が混乱を極めていた時期で、亡命者達が次々と列島に流入していた時代でもあり、
その影響で、列島内の氏族間争いも激烈だったと考えられます。
天武朝に至って、記紀が共に万世一系を記した意図もここにあったと考えられるのです。
奈良朝が、大仏に国家安寧の願いを込め、国分寺を各地に建設していったのも
この様に考えると納得いく部分があります。
宇佐八幡がその権威を固めていった背景は、東大寺鎮守となり、護国八幡大菩薩を称し、
神仏混淆を最初に始めた神社であったからに他ならないのです。
無論この事は、唐が、仏教を国教として大唐帝国を構築していったことと無関係では無いはずです。
 そうして、時代の移り変わりと共に、古代氏族、豪族が暫時その力を失い、律令国家という、
法治制下に入っていくのです。
これを演出したのが藤原氏でしょう。

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