欽明天皇について
500年前後色々面白いことがあったようです。
私が思うのに、欽明朝というのは、畿内の大和王権と、九州筑後川流域の倭王権との
融和王朝だったのではないかと思っているのです。
欽明の出自は、豊前辺りで、継体直系ではなく、大和王権と倭王権両方の縁者だったのではないかと思っているのです。
 根拠というのは大したものではありませんが、まず秦大津父の寓話が上げられます。
京都の太秦辺りが秦氏の根拠地とされていますが、それ以上に、より古い時代から豊前辺りは秦氏やその縁属である漢氏の居住していた地域なのです。正倉院文書にもこの旨明らかです。
隋書倭国伝にある秦王国というのは豊前の事だと考えています。
 仏教伝来は538年とされていますが、豊前地方には欽明期の創建になる仏閣が大変多く、中には538以前のものもあります。(無論仏教伝来が538年というのは疑問です)
 次に大伴金村の失脚後の隠棲地が行橋市の「豊日別神社」で古くは豊国一ノ宮、官幣社を称していたのです。(ちなみに宇佐神宮は豊前一ノ宮です)
磐井と継体の戦いで、互いに疲弊して、融和のために欽明朝が成立した。
 仏教を畿内に持ち込むことにより、氏族間の争いに終止符を打とうとしたのではないかと考えているのです。
豊前は、かの豊国主尊が始めて国を建てた場所で、それ故、他の地域からも尊重されていたと考えているのです。
 欽明天皇の幼名不明というのは、それなりの理由があると思うのです。
欽明が九州出自という根拠に一つ付記すると、
山口県岩国付近に残る伝承があります。
今、欽明路道路というバイパスが通じていますが、元はかなりきつい峠越え道です。
この付近の伝承に、欽明は即位の為にこの峠を越えて東に向かったというものがあります。
この道は、全くの山道で、いわゆる山陽道とは道程が異なります。
熊毛町から岩国に抜ける間道です。現在は舗装されていますが、つい最近まで舗装もされず、
一雨降ればぬかるんで、歩くこともままならなかった道です。
なぜこの様な間道を欽明が通ったかを考えて見ると、何よりも、平穏な東行ではなかったことを
考えざるを得ません。

無論地元伝承のみで、記紀を含む文献には一切記されていません。
既に大論争では紹介済みなので、付記しておきます。

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