饒速日尊と神武 |
大論争で、饒速日尊が話題に上っています。 未だ早いのですが、私見の概略を記しておきます。詳述は神話解題の方で改めて行います。 饒速日尊の出自は豊前宇佐辺りと考えます。 出雲、高天原の争いで、高天原が敗北した際、饒速日尊は、人質として筑前久留米に連れて行かれたと考えています。 その後、出雲に連れていかれ、大国主尊の下で養育されたのでしょう。 成人してから、出雲の支配下にあった畿内に移り、長髓彦の一族の下に入り婿したと考えられます。 神武が熊襲から放逐された際、同族であると伝え聞いていた饒速日尊の一族を頼ろうとして、 東遷したのです。 神武一行が畿内に到着したとき、饒速日尊は既に、この世になく、それ故、長髓彦との争いが生じたのでしょう。 しかし、一応畿内に居所を得、饒速日尊の一族と縁戚関係を構築し、神武朝と自称する地位を得ていったものと考えられます。 饒速日尊の一族とは、物部氏、尾張氏、海部氏等です。 当時の畿内は、出雲朝下で、これらの一族と安部氏等とで緩やかな連合体を形成していたと考えます。 大国主尊がなくなった後、出雲朝では猿田彦も死亡しており、求心力を失い、九州も畿内も独立色を強めていったものと考えています。 |