「埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣について
(表文)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏文)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也
photo 稲荷山出土銘文鉄剣
photo 銘文鉄剣表
photo 銘文鉄剣裏
photo 銘文トレース図
link 稲荷山古墳へのリンク

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大論争投稿済みの私の意見について、以下に内容別に整理してまとめておきます。
私見の先書きはしていません。あくまで投稿済み分です。
☆辛亥年について
稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年が471年か、531年かの議論です。
通説では、471年獲加多支鹵大王=雄略説ですが、この通説に疑問を投げかけているのです。
☆獲加多支鹵大王の比定について
銘文の「獲加多支鹵大王」は雄略でしょうか?
銘文には「斯鬼宮」とあり、
雄略の宮について日本書紀では「泊瀬の朝倉」
古事記では、「長谷の朝倉宮」となっています。
帝王編年記でも「泊瀬朝倉宮」で、銘文の「斯鬼宮」とは違うようです。

問題は、宮居の違いです。「斯鬼宮」と記されている銘文を雄略の宮に比定するのは難しいと思うのです。
これは、記紀の記述と、金石文のどちらを重視するかという問題でもあるでしょう。
私は金石文重視の立場ですから、獲加多支鹵大王を雄略とするのに疑問を持たざるを得ないのです。

おおざっぱに言えば、朝倉は磯城に含まれるでしょう。
しかし、この論で行くと、
清寧=伊波禮ミカ栗宮、仁賢=石上廣高宮、武烈=長谷列木宮、継体=伊波禮玉穂宮、等も
みんな斯鬼宮に含まれてしまい、特定不能になるのではないでしょうか
獲加多支鹵大王が雄略なら、泊瀬天皇と呼ばれているわけですから、
泊瀬宮と、銘記すればよいと思うわけです。

古事記成立が712年、
辛亥年を471年として、この間241年
辛亥年を531年とするとこの間181年
現在1998年から
241年前と云えば1757年・・吉宗時代から田沼時代への移行期
181年前と云えば1817年・・浦賀にイギリス船が来航
情報劣化はあるにしても、大したものではない程度の期間だと思います

鉄剣銘に「斯鬼宮」とあり、雄略とは考えにくいという疑問を呈しました。
で、私は、「斯鬼宮」は欽明の宮居が該当するのではと考えます。

古事記に欽明の宮として、「師木島大宮」
日本書紀では、「磯城嶋金刺宮」となっているからです。
ここで、注目したいのは、古事記の「師木嶋大宮」で、「大宮」と記されたのは、歴代の中で始めてである点です

雄略の即位年、没年に関して、
古事記では己巳(489)年8月9日没
日本書紀では安康3年11月13日即位、翌年が雄略元年(丁酉457年)
雄略23年8月没で丁酉を基準に数えると479年=乙未

辛亥年471は、書紀では雄略15年に当たります。
雄略15年の条には秦臣に関する記述以外何もありません。

一方欽明について、私は即位年辛亥531年説ですが、(これについては別機会に)
日本書紀で欽明元年7月の条に
7月14日「都を倭国の磯城の郡の磯城嶋に遷す。よりて号けて磯城嶋金刺宮とす。」とあり、
銘文「辛亥年七月」に付会する事に注目しているわけです。

欽明に付いては、生年不詳、没年齢不詳、名義不詳、とまあ不思議な
人物です。この不思議さに謎が隠されていると考えています。
獲加多支鹵大王が「ワカタケル」と読むかどうかは今少し議論が必要でしょう。否定はしませんが、
他の読み方の可能性もあると考えます

☆稲荷山古墳について
稲荷山古墳の調査報告書によると、付近には住居跡が埋没している可能性が非常に高いそうです。
土器の他、馬具、鏡、鉄剣、鉄鏃、三環鈴、勾玉、銀環、等
色々出ています。
土器編年の基準の一つがこの銘文入り鉄剣でもあるのです。
古墳の被葬年代は、6世紀前半と判断されています。

埼玉稲荷山古墳調査報告書から引用します。

『第一主体部の副葬品は、五世紀の中頃から後半に比定できるものとして、
 ○[糸車糸・口](f字形境板)
 ○素環雲珠
 ○素環辻金具
 ○帯金具
 ○三環鈴
六世紀前半に比定できるものは、
 ○鈴杏葉
 ○方形辻金具
 ○壺鐙
 ○鞍橋金具
 ○[革妥]
その他、鉄・鏃直刀・鉾は五世紀後半から六世紀前半に観られる形式であり、
画文帯環状乳神獣鏡は五世紀代に分与されたものであろう。
したがって、第一主体部の被葬者は、辛亥年が西暦四七一年あるいは西暦五三一年であるにしろ、
六世紀前半に埋葬されたものと思われる』…引用以上。

ここに言う第一主体部とは、銘文入り鉄剣のあった礫槨部分を呼び、
普通、古墳年代の比定は、最も新しい被葬品で判定されるわけですから、この第一主体部が
五世紀末で確定とは云えないはずです。
☆銘文の読み方について
(銘文読みその1)
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
上祖名意冨比[土危]・・・・・・・・・上祖名はオオヒコ
其児多加利足尼・・・・・・・・・・・・・其の児多かりたるに
其児名弖巳加利獲居・・・・・・・・・其の児名はテミカリのわこ
其児名多加披次獲居・・・・・・・・・其の児名はタカヒジのわこ
其児名多沙鬼獲居・・・・・・・・・・・其の児名はタサキのわこ
其児名半弖比・・・・・・・・・・・・・・・其の児名はハテヒ
其児名加差披余・・・・・・・・・・・・・其の児名はカサヒヨ
其児名乎獲居臣・・・・・・・・・・・・・其の児名はコワコの臣
世々為杖刀人首奉事・・・・・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
来至今獲加多支鹵大王寺・・・・・今に至りてワカタキロ大王の寺に来る
在斯鬼宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯城(斯鬼)の宮にあり
時吾左治天下令・・・・・・・・・・・・・吾天下に(号)令し治むるを左(たす)く時
作此百練利刀・・・・・・・・・・・・・・・此の百練の利刀を作る
記吾奉根原也・・・・・・・・・・・・・・・吾(系譜と事跡の)根原を奉りて記す也
「寺」というのは、神社仏閣の「寺」ではなく、お役所仕事の「役所」の意味です。

意冨比[土危](オオヒコ)は普通、孝元天皇の御子「大彦命」
いわゆる四道将軍の一人と考えられています。

「鬼」は銘文で見ると、「’」のない「田」です。これは和訓ではkamiと読みます。神と同じ。
九鬼氏という一族がいますが、「’」無しの「田」を書いて、「クカミ」と読むのが本当なのです。

銘文を記したのが、乎獲居臣で、
「多加利足尼」の部分を人名とは考えていません。
その理由は、以下の文体と比較した時、
「其児」の後に此処だけ「名」がないからです。

獲加多支鹵大王を、私はワカタキロと読んでいます。
キロは音韻交代でケルでも良いのですが、まあ原則通りと云うことで。
古墳築造年代の基準に出来るのは520年代築造の百済武寧王墓で、 江田船山古墳は武寧王墓より、時代が新しく、
埼玉稲荷山古墳は、江田船山古墳より 多少古い。
井上秀雄氏の金石研究によると、草冠無しの「獲」の字の使用は、 中国金石では、東魏536年墓誌が初見で、
朝鮮では568年新羅碑文が初見とのことです。 即ち、「6世紀前半の始めの頃=525年以前」は成り立たないのです。
榛名山噴火との関係について、
榛名山噴火に伴う降灰物が稲荷山古墳の主体部から出てこない事を理由に、辛亥年が471年だとする論があります。
これは、考古学上の年代論を理解していないことから来る論で、取り合う気にならなかったのですが、一応記しておきます。
榛名山噴火は6世紀前半に約30年の間隔をおいて2度起きたと考えられています。
この6世紀前半の30年という推定は、実は、土器編年を元に推定されたものであり、
土器編年が稲荷山鉄剣銘文の辛亥年471年説(文献的仮説)を前提として加味された上で行われているわけであり、
論理の循環に陥っているわけです。即ち、

文献推定から辛亥年は471年である→土器編年から周辺遺跡の年代推定→降下物と遺跡の関係調査
→榛名山噴火は6世紀前半→稲荷山古墳築造は6世紀前半以前→辛亥年は471年

降下物との関係で云えるのは、稲荷山古墳築造後、榛名山噴火があったという時間系列だけであり、
年代特定は出来ていないのです。