将軍の任命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原文引用は恰好付けには良いのでしょうが、面倒なので、必要最低限の場合を除き、省きます。 希望があれば資料庫に掲載します。 |
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☆漢 劉邦が韓信を大将に任命したときの逸話から。 劉邦が漢王朝を開く前、 韓信が劉邦を見限り、劉邦の元から立ち去ろうとしたことがあります。 丞相の簫何はこれを惜しみ、劉邦を説得、劉邦を諫めた後、韓信を大将に任ずることを薦めたのです。 そしてその任命に際しては、「良日を選んで斎戒し、壇場を設けて礼を具えて任命しなければならない」 とも説諭しました。 さて、その様にして、壇場での儀式が行われ、韓信が受任した後には、席が改められ、 韓信は漢王劉邦よりも上席に座を取ったのです。 |
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☆説苑(ゼイエン)指武篇 「将と軍吏は北面し、再拝稽首して命を受け、天子南面してこれに鉞(エツ;まさかり)を授け、 東行し西面して揖(ユウ)す。御せざるを示す也。」 ※「揖す」というのは礼の作法で、両手を上下させる動作の事。簡単な会釈です。 ※「御せざるを示す也」というのは、もはや命令はしないと云うことです。 |
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☆淮南子(エナンジ)兵略訓 国に難があると、君主は将を召して詔を下し、 「社稷の命は将軍にあり。願わくは請う、子、将として之に応ぜよ」と命じ、将軍が命を受けると、 祝吏の官に命じて、斎宿三日の後、太祖の廟で亀卜を行い、吉日を選ばせる。 その日には、鼓旗を授けしめて後、君主は廟門に入って西に向かって立つ。 将は軍吏を率いて廟門を入り、堂下に至って北面して立つ。 そこで、主が親しく鉞をとってその頭を持ち、将軍にその柄を授けて、 「此れより上、天に至るまで、将軍此を制せよ」と言い、 又、斧をとって頭を持ち、将軍にその柄を授けて、 「此れより下、淵に至るまで、将軍此を制せよ」と言う。 |
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とまあ、将軍任命には、儀式が伴うわけです。 この儀式、多少の差異はありますが、君主が、君主の座(南面)を離れる事と、 斧鉞を直接手渡すことに、重要な意味があったようです。 つまり、君主の座を離れることは、将軍と対等な立場に立つことを意味し、 斧鉞を直接手渡すことは、一歩間違えば、その場で斬り殺されることもあると云うことであり、 それだけの信任があると云うことを示している訳です。 |
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さて、将軍の権限について、 史記列伝「孫鬢」「司馬穣苴」についての記述から次のようなことが解ります。 将軍がひとたび任命され、軍を率いて外征の途につけば、その行動を一々他から拘束されるようでは 戦にならないわけです。 又、帝の命と将軍の命とが違った場合、部下はどちらに従ってよいか迷うことにもなるわけで、 「将、軍にありては君命も受けざる所あり」と云うことが了解事項となり、 軍中では、将軍の命が君命に優先するのです。 「斧鉞の権」というのは、要は死刑執行権であり、賞罰権であるということです。 参考までに、漢書刑法志によれば、 大刑は甲兵を用い、その次に斧鉞を用いる。中刑には刀鋸を用い、その次に鑚[竹冠+乍](さんさく) を用いる。〜」とあり、斧鉞の刑というのはかなり厳しい刑であり、 軍吏、兵卒の反戦的行動、軍律違反に対する威嚇でありその賞罰としての死刑を意味しています。 |
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将軍の分類
大将軍・列将は開府の権を持つ。
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続く |
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