いわゆる「偽書」について
東日流外三郡誌等のいわゆる偽書とされる一連の書について、記紀の欠史部分を補完するものとしての価値は、
それが僅か10%程度に過ぎないとしても、その価値は認められるべきだと考えます。

東日流で云えば、いわゆる遮光土偶が荒吐神であると云うことに関して、記紀に記載がない以上
これを無視する事は出来ないと考えています。
少なくとも奥州藤原氏滅亡前後までは、東北地方に、大和朝廷の勢力は及んでいませんから、
これと独立した勢力が存在しており、その伝記があることは当然のことであると考えます。

古文書が旧家の天井裏からでてくる事について、これはある意味では当然のことで、
たとえ蔵を持つ旧家でも、本当に大事なものは、天井裏特に座敷広間の床上の天井裏
若しくは家長居所の天井裏に隠すことは、昔から行われてきたことです。
なぜかと云えば、保存環境として最も良い事。火災などいざというときには、天井を打ち破ることで、
すぐに持ち出せる事。家人の生活空間近くである。等の理由です。
これは、例えば日本刀特に古刀が、秀吉の刀狩りや太平洋戦争中の金属供出等の強制を免れて
残存していることでも実証できます。

普通、伝統的木造家屋の寿命は最低300年と云われていますから、この程度の時間的スパンをもって
古文書がでてくるのは十分あり得ることです。
文書の場合、管理が適当でなければすぐに虫食いや鼠の被害を受けます。
当然、その様な場合、家伝に関するものであれば転写が行われるはずで、
公開を前提としていなければ、転記由来を追記することも少なく、
又、転記時期により近い表現に書き改められることも起こりうることです。
文献批判の上では、この様に転記された文書は正本ではないと批判されるようですが、
それは、形式上のことであり、重要なのは記述内容の論理整合性であると考えます。
近年でてくる古文書をすべからく偽書、捏造書、贋作呼ばわりするのは、正当な態度とは思われませんし、
未だ埋もれている古文書の公開を躊躇させるだけのようにも考えています。

all or nothing 的発想では、古史古伝の問題は解決できないと考えている次第です。
「木を見て森を見ず」に陥る事を危惧します。
無論、自説に反するという観点からの誹謗中傷・演繹的非難は論外です。

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