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《サンカ文字》 サンカ(山窩)と云うのは差別語であることを最初に断っておく。 ミカラワケヤヨロヅノモノハコビ(身殻別八万物運)が正しい呼び方で、 時にはテンバモノ(転場者)と自称する。 彼らは、生活場所を転々と移動するため、浮浪者と間違われることが多いが、 明確な違いが幾つかある。 1つは、誇り高い古部族であると云うこと。 2つには、天の群雲の剣を写したという、ウメガイという両刃の山刀を持つこと。 3つには、グミ材で作られたテンジン(天人)と呼ぶ自在鉤を用いること。 4つには、ヤエガキという厳しい掟に従って暮らしていること。 などである。 彼らに関する研究は、三角寛氏に負うところが大きい。 三角氏が研究する以前において、謎の多い部族であった。 サンカ文字と云うものも、ある偶然から世に知られる事になったもので、昭和11年の事であり、 その解読は昭和17年の事である。これ以前において知られることは殆どなかった。 彼らが彼らの仲間内で用いる言葉は独特の表現が多いが、オヤッと思うものが多い。 例えば、上に記したヤエガキは素戔嗚尊の和歌に縁起がある。 ウメガイ(山刃)は、ウメ=甘し=見事に、ガイ=断ち切るもの、という古和語であり、 これは出雲鉄を用いて作られるのが正式である。 又、婚姻は一生一度の厳格な儀式であるが、最初の性交は、イザナギイザナミと呼ばれる。 彼らの死はカミサリ(神去り)という。 等々、数え上げるときりがないほどである。 彼らの発生は遥か古代であり、遠祖は火明命とされ、反正天皇は一族の頭領でもあったという。 古代においては穴居していたが、蝮取りを生業とすることで転場生活に変わったという。 転場生活というのは、簡素なテントで野営しながら各地を移動していく暮らしの事をいう。 その後一族としてまとまりを形成したのは、一条天皇の時代、藤原道隆の隠し子である道宗が丹波に捨て子にされ、その地で、出雲族から箕作りなど諸技能を学び、出雲族と混交し隆盛し一族の増加に伴い全国に分布して行く際の掟を作った事による。 ここで断っておくが、彼らは、職能集団としての一族であり、血縁集団が本来の姿ではない。 勿論ミカラワケ3代続くと、4代目からはハラコ(腹子)として、別格扱いされる。 厳格な一夫一婦制を守り、子は婚姻後は完全に独立し、相続などは一切無い。 葬風は風葬で、古来の文化や掟を厳格に堅持する事で族としてのまとまりを維持してきた一族であった。 掟の中に部族のことを他に漏らしてはならないと云うことがあり、長く世に知られることがなかった。 掟破りは、暗殺刑に処せられた。 彼らに関する考察は、別稿に委ねるとして、サンカ文字である。 サンカ文字は一葉の写真が残されただけで、「ア」等が欠けている。 (これを残す契機となったサンカの女性は直後に変死) 豊国文字がサンカ文字に負う事は既に記したが、確かに、類似性が非常に多い、いや多少簡略化されてはいるが殆ど同体と云っても良い。 豊国文字批判で云われる「へ」字(お尻を突き出した様子)等全く同体である。 一字一音の表音文字であり、表記は象形性を有する表意文字でもある。 又、天津教事件の稿で記した天津文字もサンカ文字に酷似しているものが多い。 豊国文字が残された「上記」は豊後サンカの伝承を集めて記されたとも伝えられているが、 三角氏の探究は主要には関東のサンカに負っている訳で、直接的な関連はない。 にもかかわらず、1000年近い時を経て共通性があるというのは、両者の信憑性を互いに高めるものであると考えるべきであろう。 そして、彼ら一族は昭和20年代半ばまで確かに現実に存在した一族であり、長く文字を使わない一族であるとされてきたのである。 世上の国語学者等はこの事実をどう読み解くのであろうか? |
(注) これまで、豊国文字、サンカ文字、天津文字などと便宜上記してきたが、 本来は、いずれも「神代文字」と呼ばれており、「母字」と当て字されることもある。 |
彼らの婚姻に際して、素戔嗚尊の和歌が唱和されるのだが、ここに不可思議なことがある。 歌の前に、「イズモウ」という発声が次々行われ、 その後に歌われる歌詞が 「ヤクモタチ、イズモヤエガキ、ツマゴメニ、ヤエガキツクル、コノヤエガキヲ」である。 書紀では、 「ヤクモタツ、イズモヤヘガキ、ツマゴミニ、ヤヘガキツクル、ソノヤエガキエ」である。 (夜句茂多[刀/兎] 伊[奴/弓]毛夜覇[食+我]岐 [刀/兎]磨語昧爾 夜覇[食+我]枳都倶廬 [貝+曾]廼夜覇[食+我]岐廻) 古事記では 「ヤクモタツ、イズモヤヘガキ、ツマゴミニ、ヤヘガキツクル、ソノヤエガキヲ」である。 (夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁) イズモが出雲とされ、ヤエガキが八重垣とされて久しいが、果たして、そのままなのか疑問がわき起こる。 出雲の語源は旧来不明であり定説はなく、雲が出る、藻が茂る、など色々解釈されていたが、 個人的にはどうもスッキリせず納得いかないままであった。 無論、この和歌が素戔嗚尊の創作と云うことにも疑問はあるが、それは別事として古歌であることは間違いない。 サンカの伝承・習俗から考えるに、 ヤクモタチ(ツ)は、多くの蜘蛛族が穴居を止め転場生活に変わったことを表している。と考える方が妥当である。 イズモはイズクモであろうから、蜘蛛族が出る即ち穴居を止めると云う意味であり、 ヤエガキが掟の意味であれば、転場生活に変わるに際しての掟を守る事が、この和歌には込められているのであろう。 婚姻に際してこの歌が唱和されるのは、この時点で同時にウメガイとテンジンが新夫婦に渡されるのであるから、一家を為すに際して、古来の掟を守る事の宣言であるのであろう。 唱和の前に「イズモウ」と云うのは「(穴から)出てこい」と云う呼びかけであり、 同時に「居住まいを正せ」と云う宣命でもあるのであろう。 和歌の意味をまとめると、 ヤクモタチ………多くの蜘蛛族がこれまで穴居を止めてきた イズモヤエガキ…穴から出るに際して掟を定めて守ってきた ツマゴメニ………妻を得て独立するに際して ヤエガキツクル…夫婦の掟を作り コノヤエガキヲ…古来の掟と共に守れ と云う意味であると考えられるのである。 かつて別稿で出雲の「八重垣神社」は古社ではないと記したことがある。 いかにも取って付けたような伝承、稲田比賣を隠した「佐久の森」とか「8種類の竹垣」等に他所との矛盾、胡散臭さを感じていた。 今回、サンカ伝承からこの古歌の解釈を得、スッキリしつつ、かの神社縁起の胡散臭さを更に強めた次第である。 |
ついでに記す。 サンカが移動するに際し、袋を背負ってあるく姿をナムチと呼ぶ。 無論、大国主命(大己貴命)の袋を背負う姿を映したものである。 サンカというのは、かくまで出雲との関連が深いのである。 これまで国主・国栖(クス)・蜘蛛・土蜘蛛、等いずれも出雲族と記してきた。 今回サンカに言及するに際して、その認識は更に確たるものになっている。 サンカ(山家or三家)は東北、北海道はエドと呼び転場しない。エドは穢土の意味であろうか。 江戸も同意かも知れない。前者は気候が厳しく、後者は元来湿地帯で、野営に向かなかったのであろう。 とすれば、東北マタギは、別系の山の民と云うことになる。 |
広島では、昭和20年代末まで確実にやってきていた。 太田川の支流である三篠川方向が祖母の里なのだが、この三篠川に夏になると毎年やってきて、 農家の藁小屋を宿にして、川魚を穫り、素焼きにして、物々交換していたという。 1週間位いると次の上流の集落に移動していく。 殆ど里人と話す事はなく、穫った川魚を交換する際にも、口など効かなかったらしく、 交換する物として何が欲しい等と言うことさえ語らなかったらしいのだが、 里人の方がその辺りは心得ていて、各家ごとで交換する物、米とか野菜とか、お金とか 長年の習慣で、決めていたのだという。 悪さをしない、おとなしい、と云うことで、誰も咎めることはなく、 むしろ、彼らが来るのを楽しみにしていたらしい。 戦後、川が荒れ、魚が捕れない時期があったらしく、その時には竹細工物を作っていたという。 漁法は千本針流しという方法で、針をたくさん付けたテグスを流す方法で、かなり古い漁法らしい。 傍で子供達が水遊びなどしても、全くお構いなしで、知らん顔を通していたという。 親父が子供の頃、彼らの宿を覗いたことがあったらしいのだが、全く取り合わず、 文句も言わなかったという。 普通は4人ほどの家族で、一番多いときで二家族7人で来たこともあったという。 昭和30年代に入るともう来なくなったという。 |