マルクーゼの本を読もう。

「鬼の日本史」もう6回ぐらい読み返している。
今は上巻の3/4ぐらいの処でうろうろ。

これまで読んだ古代史関係の本の中では「倭国ここにあり」という本が
真偽はともかく、一番説得力があったように思う。
しかし「倭国」とか「卑弥呼」等中華思想を嫌らしくも表現している言葉を
なぜためらいもなく受容してしまうのか、どうにも理解に苦しむ。

ソクラテスが毒杯をあおるに際して、「悪法も国法」と言ったとか
すごい自己矛盾。
本当にそう思うなら、自殺せずに法によって処刑されるべきだと思う。

江戸っ子漱石は、もう十年生きていたら、世界的名作が残せたかもしれない。

鴎外の「伊澤蘭軒」を高校時期に読んで見て、この人はいったい何のつもりで
こんな本を書き続けたのかと思った。「澀渋抽斎」はまだ解る。
ものすごい上昇志向の挙げ句に、森林太郎として死にたいなどとは・・・

中也は嫌いだと湯田に住みながら公言すると、総スカンを喰らう。
かつて中也全集を手に入れて、1ヶ月で売り払った。

ランボーを中学時代に読んで、詩作を捨て去ったその潔さに感銘を覚えた。
詩人だと感じるのは、リルケがいる。

松山から旅行で山口に来たという人がいう。
「なぜ防府や山口では山頭火に冷たいのか」と
そりゃそうだろ、自堕落で、たかられた人が多かったのだから。

日本文学者協会で年金制の導入が検討された時。誰だったか、
「のたれ死に覚悟でなければ文学なんぞできるものか」
と喝破した作家がいた。井上靖だったかな。

賢治は苦しいけど明るい。
だからいつも手元に置いておきたい本。
ブロッホも同じ。
ルカーチなんぞ読めば読むほど厭になる。
だから又読まなくてはいけなくなる。

20世紀の文学テーマは「疎外からの解放」だというのに、
私小説やミステリーにうつつを抜かしているこの国の「作家」達は
一体何を考えているのやら。
ミステリー・推理小説という名の殺人物語を読んで、
読書などとは言わないでもらいたいものだ。
ホームズも最後はネタ切れ。

表現力では川端や三島がまあ抜きんでていたが、思想性は疑問。
崩落の中に美を見いだそうとするなど、明日に向かえない。
太宰よりはましか。

バルザック全集を少しずつ集めている。
絶版になっているので探すのが大変。
中学高校時期、広島の「金正堂」の書棚の一番上に置かれていて、
3・4年かけて、ひたすら立ち読みを続けていた。
売れないからいつまでもあった。
今思うと、私の立ち読みに気づいて返本しなかったのかもしれない。
とすれば感謝。

今時読まれない高橋和己。
作家としては3流だろうが、誠実さには共感できる。

「失われた時を求めて」4年掛かりで読んだ。
今から十数年前。まだ良く解らない。

そういえば、大学時代安部公房が好きだという自称文学青年がいて、
「カフカの猿まねだろ」と言ったら怪訝な表情を見せた。
その後文学青年を自称しなくなったが、ちょっと悪いことをしたかも。

今は大御所の小林秀雄
自明のことを書き連ねて評価されるとは、なんともはや。

直情吉本隆明、「言語にとって美とは何か」
支持者の内では著名なそうだが、誰も読まない
ならばと読んでみても、ヘーゲルの「美学」に遠く及ばない。
「擬制の終焉」だけで止めとけば良いものを。

大江健三郎がノーベル文学賞だって。
悪い冗談。何にでも中途半端に首を突っ込んでみるものだ。

「杳子」で不可思議な情景描写を行った古井由吉、
しばらくつきあったが、結句思想がない。

中谷宇吉郎が雪の研究を行った後の事を、誰も語ろうとしない。

山口にきて、萩出身の子が「松陰先生の教えを守り云々」と言っている。
「あのね、松陰はあの時代に攘夷を主張していたんだよ」というと
「攘夷って何ですか」だと。

鹿野は火野で焼き畑を行っていたかもしれないと柳田が推察する。
それを読んだ民俗学者が喧伝すると、
物知り顔の物書きが、日本中の「かの」では焼き畑が行われていたと吹聴する。
「ああそうなのか」と、地方史研究家は納得する。

学生自治会の会議中、「資本論」は資本主義下では金儲けの指南書だね。
というと、右翼呼ばわりされた。

大学の学内工事で学生の怪我人が出たので、本部に抗議に行ったら、
左翼過激学生呼ばわりされた。

「レーニンはその出自においてスターリンにコンプレックスを持っていた。
それ故、トロツキーではなく、スターリンを引き上げた。」
こう考えると、了解できる部分がある。
ただし、その後のロシアマルクス主義の偏向は、歴史の示すとおり。


井上馨が志道聞多であったと先日初めて知りました。
志道本家とどういう縁があったのか誰かご存じでしたらお教え下さい。
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