《菊池川遡上》
今回のコース
山口→博多→玉名→山鹿→菊池→日田→耶馬渓→山口

大論争マスターのbunnさんと博多で会う。
福岡ドームの隣、シーホークホテルなんて初めて。
bunnさん、思っていたより若い。32才だったか?もう忘れている。

11時前に別れて、例によって当てもなく南下。

瀬高町を通る。
七支刀人形を撮ろうと思ったが、早く着きすぎ、警察署にあった観光パンフレットで代用しておく。
瀬高では7月末に、卑弥呼祭りが行われるそうであるが、未詳。
 七支刀人形

玉名に行き、玉名温泉に入る。
朝5時半から開けている有り難い温泉。
もう、朝から爺ちゃん婆ちゃんが詰めかけている。
何と、200円、石鹸はあるが、すぐに無くなりそう。
湯温は42゚Cと高いが、夏の朝、烏の行水なので我慢。
泉質表示は何もなく不明。

一休みして、菊池川を遡上、
先ず、菊水町江田地区
江田船山古墳
公園になっている。

《江田船山古墳》
前方後円墳で、ここから銀象眼のある鉄剣等多くの副葬品が出土して有名である。
内部には家型石棺がある。
近くには虚空像塚古墳や塚坊主古墳もある(どちらも円墳)。

次にトンカラリン。ここが今回のお目当て。

《トンカラリン》   
江田船山古墳のある公園の道路反対側の山裾にある。
最初、案内板も何もなく解らなかったが、自転車に乗った通りすがりのお爺さんを呼び止めて教えて貰った。
お爺さん曰く「大したもんじゃなかとけんね」
地元ではそうかもしれない。
トンカラリンというのは、400メートル以上断続的に続く、人工洞窟で、何時、何の為に作られたのか
未だに解っていない。
下方ほど洞内が小さく、上方に行くほど洞内が大きくなっている。上方に2カ所天井の崩落した場所があり、
そこから小石を投げ入れると「トンカラリン」と音がするとかで、この名が付けられている。
今は危険な為、柵が作られており、無論小石も投げ入れてはいけない。

松本清張が、卑弥呼の鬼道というのはこの遺跡を指しているのではないかと記して、有名になった。
その後、排水溝説が出て、決着したかに見えたが、先年の洪水の際、
このトンカラリンには水が流れなかった事で、
再び目的不明の不思議な遺跡となっている。
不思議な不思議なトンカラリン。

次に鹿央町
ここには熊本県立装飾古墳館がある。
古代蓮が丁度咲いていた。
駐車場からかなり歩かされる。古墳館建物内部でもひたすら歩かされる。
誰が設計したのか知らないが、遠来者には迷惑千番の建物・施設である。

申し訳の様に、「身障者の方はこちらからお入り下さい」なんて看板を立てているが、
何か勘違いしていないか、と腹立たしく思う。
こういうのは建築デザイナーのエゴでしかない。(前方後円墳をイメージしたらしい。アホクサ)

展示は、何ということもない、装飾古墳内部のレプリカがあちこちに作ってある。
ご丁寧に、レプリカの作り方まで解説してある。アホクサ。
映画上映があり、その中で物部麁鹿のことをアラカと呼んでいた。は乙類清音だろ。
これで県の施設かね。もっと勉強しろよ。(と公共施設には文句を言う「風姿」です)
もう勘弁してくれという感じである。
まあ、施設全体が子供の遊び場だと思えば妥当だろう。

きれいな形で残る前方後円墳の双子塚古墳が泣いている。

近くに岩原横穴古墳群がある。
岩盤を掘り抜いて作られた墳墓群で、100基以上ある。

続いて、山鹿市
オブサン古墳とチブサン古墳

《チブサン古墳》  
前方後円墳で、装飾画のある古墳。八女の岩戸山古墳より後の時代の古墳と考えられているそうである。
国指定史跡になっているが、個人所有の古墳だそうで、県にも町にも絶対譲らないとか。偉い。
内部を見るには、近くの山鹿市立博物館に申し込めば見せてもらえる。朝10時と午後2時の二回。100円。
着いたのは1時前だったが、頼むとすぐに連れて行ってもらえた。
写真より、実物の方が美しい。幾何学模様と宇宙人のような人の絵が描かれている。
内部の天井がかなり高く作ってある。
円墳と方墳の境目には石人が立っていたそうだが、今は東京の国立博物館に持ち去られているそうで、
現地にはレプリカが置いてある。話が逆だよ。東京にレプリカを持って行け。
岩戸山古墳の石人は頭部を破壊されていたが、ここの石人にはちゃんと頭がある。
チブサンというのは「乳さん」のなまったもので、子育ての神様とされてきた。

《オブサン古墳》  
円墳で突堤が2カ所付いている。チブサン古墳の山手200メートルほどの所にある。
装飾があったようだが、苔に覆われ、はっきり見えない。
オブサンというのは「産さん」のなまったもので、安産の神様とされてきた。
突堤の様子はエジプトのスフィンクスの前足みたいで、何のためかちょっと不思議。

後色々あるが、先ずはUpを優先。
というのも、大論争に七支刀人形の画像を掲載しようとしたが、うまく行かないので、こちらで代用。


菊池川流域の古墳の中心地は山鹿であると思う。
磐井の戦争の後、筑紫の君の一族は八女から段々南下し、山鹿に移ったのではないかと考えている。
山鹿の地勢を見ると、拠点としては非常に良い。攻められ難く、守りやすい地勢である。

船山古墳のある江田地区や山鹿には筑紫姓の人が多い。
被葬者は不明だが、船山古墳は筑紫の君薩夜麻、チブサン古墳は葛子というのはどうだろう。

麁鹿(アラカイ)というのは、抗う(あらがう)の意味で、
九州王朝に抗った・逆らった・反旗を翻したという意味の呼び名かもしれない。
これなら磐井のなめり事の解釈がつく。
八女→山鹿→菊池→日田→豊前→求菩提山が磐井の逃走コースとして妥当であることを今回確認。
風土記逸聞はまんざら虚構とは云えない。

江田船山古墳にせよ、チブサン古墳にせよ、臼杵の臼杵神社のある古墳の姿・大きさと非常によく似ている。
宮崎西都の男狭穂塚・女狭穂塚とは異質なものを感じる。

ところで、古墳内部は非常にひんやりとして涼しい。雨上がりで湿気は多かったが、避暑にはもってこいである。

チブサン古墳のホームページがあった。ここからたどると全国の装飾古墳のリスト?に行ける。
トンカラリン、チブサン、オブサン、ほとんど遊んでるとしか思えない名称。
これは、それだけ地元では身近で、きっと大切にされてきたのだろうなと思う。
そういえば八女には珍宝岩なんてのもあった。男根形の大岩だが、何ともおおらかである。
戻ってから、山鹿の人のホームページを探していたら幾つか発見。勝手にリンク。
みんな良く作ってあり、私の雑さとは比べものになりませんね。(~_~;)
お盆には山鹿市で「灯籠祭り」があるそうです。頭上に飾り灯籠ををつけた人が練り歩くらしい。
詳細不明。行くしかない。
それと山鹿には家族風呂の看板がたくさん出ていた。あちこちで湧いているのだろうか?。

毛利さん   山田さん  リエさん  山鹿関連のホームページ

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