メモa

足一騰宮
(あしひとつあがりのみや)

神武記にある。
古事記では「足一騰宮」と記されており、日本書紀では「一柱騰宮」と記されている。
読み方は共に(あしひとつあがりのみや)(書紀:阿斯毗苔徒鞅餓離能瀰椰)

日本書紀の表記は、なにがしかの錯誤によるものと思われる。
「一柱」を(あしひとつ)とはどう転んでも読めない。

それはともかく、この宮に関して、候補地が3ヶ所あり。いずれも決め手を持たないままで居る。
というのも、本居宣長が「古事記伝」でこれを、「川岸の山へ片かけて宮を構え、一方は流れの中に大きな柱を一つかけて作った宮か」などと記したことから混乱が始まったのである。

「足一つ上がり」とはどう云うことなのか、片方の足が水中にあるなどと云う話はどこにもない。足であって柱ではない。なぜこういう当たり前のことを、宣長のような奇怪な解釈をする必要があるのか??またそれを真に受けるのか??不思議でならない。

「足一つ上がり」というのは、「一歩で上がることが出きる」という意味であり、「饗宴のために簡単に設えた」というほどの意味でしかない。
そうしてみれば、川辺でなければならないなどという奇妙な根拠は無用となるわけで、
3ヶ所ある候補地のいずれが正しいかは自ずと明かである。

即ち、安心院の妻垣神社境内の「足一騰宮」跡地がこれと断定できるのである。

安心院には三女神社があり、宇沙都比古、宇沙都津比賣、がこの地にあって三女を祖神としていたといういわれにも合致する。
「安心院(あじむ)」は元「葦生(あしむ)」と云い、葦が生い茂っていた湿地であった。
妻垣神社は共鑰山(ともかき山=妻垣山)の中腹、見晴らしの良い場所にある。
又、三女神社も三柱山という小高い山頂の見晴らしの良い場所にある。
古代においては、葦の生い茂る湿地ではなくこれらのような小高い場所を居所としていたのは当然のことであろう。

宣長はこの地に足を運んだことはない。他の候補地も同様。
紙の上の話と伝聞だけでは誤るのも無理からぬ事である。

妻垣神社、三女神社に関しては又機会を見て記す。(つもり)

ついでに「葦」は(あし)であって(よし)ではない。
(あし)は(悪し)に通じるので(良し)だと。
こういう下らぬ読み替えには反吐が出る。(某国営放送等)
葦原中国は(あしはらのなかつくに)であって、(よしはらのなかつくに)ではないのである。
葦原中国の(あし)を(よし)と転じ、吉原中国とでも読み替え書き換えたとすれば、愚昧、噴飯ものでしかない。
(あし)が使いたくないなら、手足の「足」も(よし)と読むが良かろう。「明日」も(よした)とでも読め。


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Last-modified: 2016-02-19 (金) 15:57:35 (2986d)