メモa
胸鉏姫
江津に胸鉏姫伝説というのがある。
かくれ岩の伝説
神代の昔、「波子の浦」に見目美わしき六・七歳の童女、「ハコブネ」に乗って漂着した。
近くに住む老夫婦、子供のないまゝいたく喜んでこの童女を慈しみ育てゝいたところ、この娘十二・三歳のある夜、「出雲の国」に異変あるを知って直ちに帰国せんと思い立ち老夫婦に、まことに吾が名は「胸鉏姫」とて出雲の国の神の子直ちに帰国して難を鎮めるべしと、止める老夫婦をふり切って出雲の国へ向う途中この地の椎の木の茂る、大岩の陰に身をかくし、追跡の目を逃れ後大功を立てしと言う。老夫婦、「浅利の浦」まで辿り力つきて亡くなったと言う。
以来この岩を「かくれ岩」又は「かくれ岩大明神」と稱え、この地の人から崇められ今日に及ぶ嘉久志の地名はこれより生じたと古老達は伝う。
胸鉏姫命は波子早脚神社に祀られ給う。
撰者 岩根神社宮司 二宮義久
- 『出雲国風土記』意宇郡に記される、国引き伝説で、「童女胸鉏所取而」の胸鉏はこの姫に関わりのある事と思われる。
この胸鉏姫は田心姫のことであると云われ、日御碕神社に祀られているという。上記は『那賀郡史』からの簡要と思われる。
- この姫の話は『雲陽誌』飯石郡(120コマp226)にある、「大神一女神を柏葉につゝみ、斯になかしたまふ、云々」という話と対応している。(那賀郡史では箱船に乗って遊んでいた時に流されたとしている)
- 田心姫は宗像三女神の多紀理比売神と同じとされているが、この胸鉏姫の伝説からすると、宗像の三女神とは違う事になる。
三女神は天照大神との誓約により生まれたが、胸鉏姫は櫛名田比売(奇稲田姫)の子となる。
胸鉏姫が、なぜ急ぎ出雲に戻ろうとした異変が何であるのか詳かではないが、伝説に、国引き神話で引き寄せた新羅の国の一部を月支国王彦波瓊王が取り返しに来た。というのがある。(日御碕神社伝孝霊天皇61年)
孝霊天皇というのはいわゆる欠史8代の天皇であり、記紀に事跡はない。木に枝を繋いだ天皇系譜であることを勘案すれば、この記事が胸鉏姫伝説に関わっているのではないかと考え得る。
又、この伝説には奇妙な点がある。
国引きを行ったのは八束水臣津命で、速須佐之男命の4世の孫とされ、胸鉏姫が須佐之男命の娘であるとすれば、時系列が全く合わない。
出雲や石見を歩くと国引きを行ったのが須佐之男命であったり、八俣の大蛇退治を行ったのが八束水臣津野命であったりする。錯綜としているのである。その事と何か関わりがあるのかも知れない。(この件又改める)
早脚神社…今は無く、「津門神社」地理院地図の境内社となっている。社殿に向かって左手の左側。
「津門神社」で、今は祭神として「田心姫命」を祭っているが、那賀郡史162コマp259では「胸鉏比賣命」を祭神としている。
社札名に「薗妙現早脚社」とあるのは「薗妙見早脚社」の誤りであろう。「薗妙見」は今の「長浜神社」辺りのこと。胸鉏姫は薗長浜で賊を迎え撃ったという。