神名解題a

「守矢神」
(洩矢神・モレヤセニン)

武御名方神が諏訪地方に入る前から在住していた一族の神
守矢家の祖神。

モレヤセニンは守矢山(現、守屋山)に居て北斗七星を拝天する神といわれ、雨乞いなどの神事も行っていた。
武御名方神が諏訪地方に入ったとき、守矢神と争っている。
守矢神は鉄輪をもって、武御名方神に対したが、武御名方神は藤の枝で鉄器を朽ちさせ勝利したという。
鉄器に対して藤の枝で戦うというのは何とも面白い話である。
ところで、守矢神の用いた鉄器(鉄輪=鉄鐸)は湖沼鉄(褐鉄)と云われ、出雲の産鉄、即ち砂鉄からのたたら製法より純度は低かったようである。
藤の蔓は褐鉄より強いと云われるので、この伝説はなかなかに奥深いものがある。御柱を曳くのも古は藤の蔓であった。
守矢=洩矢というのはこの意味では「脆い矢→脆矢」という事であるかも知れない。

守矢一族は、縄文狩猟色の濃い一族であったようである。
諏訪地方一円では縄文狩猟文化の遺跡が数多く発掘されているが、その中心にこの守矢族が居たと思われる。
これは上の湖沼鉄によるところも大きかったと思われる。
古く脆弱な産鉄技術に頼っていた狩猟民の元に新しく強靱な産鉄技術を以てやって来た武御名方神は畏敬の念を以て迎えられたであろうことは想像に難くない。
一方武御名方神の側から見れば、新たな鉄の産地を求めて諏訪にやって来たのであると考えられる。
諏訪湖はフッサマグナ糸魚川-静岡構造線上にあり、鉱物資源の豊かな地域だからである。

諏訪上社において、御頭祭(オントウサイ)御射山祭(ミサヤマサイ)が重要な神事として行われてきているが、いずれも狩猟に関わる神事である。


武御名方神の出雲族は縄文の香りを漂わせながらも、狩猟漁労と農耕の文化を持っている。
守矢一族は縄文狩猟が中心の一族であったが出雲系の支配下に入りながらも、その中で独自の狩猟文化祭祀を引き継いでいる。
これは出雲族の寛容さというものがあり、緩やかな連合体のような文化を形成していったのであろうと考えられる。
後の大和朝廷のような、まつろわぬものは皆殺しにしていく武断式支配とは異質のものである。
それ故、諏訪には、今では他所で見られなくなった独特の文化が引き継がれてきたのであり、それを伝え支えたのが神長官守矢氏であった。

それを打ち壊したのは、明治政府の国家神道政策、神社合祀政策であった。
守矢家はこの時神長官という職を解かれ、祭祀の伝統(口伝による一子相伝)が一部失われることとなった。
諏訪の四宮も大きく体制が変わり、「諏訪大社」として変貌することになった。


ちなみに神長官(じんちょうかん・かみのおさ)というのは諏訪上社の神事を執り行ってきた神職、五官の(ホウリ)の筆頭。
五官の祝は次の五家
神長官守矢氏・祢宜大夫(ネギダユウ)守屋氏・権祝(ゴンノホウリ)矢島氏・擬祝(ギボウリ)伊藤氏・副祝(ソエノホウリ)長坂氏
(神長官は守矢氏であって守屋氏ではないので念の為)

武御名方神の末裔とされる大祝神氏(後に諏訪氏)は、現人神とされてきたので神事の務めはしない。


守矢神をミシャクチと同一視する見方があるが、これは違う。
守矢神は一族の祖神であり、ミシャクチは土地の神・自然神である。


ついでに、物部守屋が諏訪に逃れてきて云々という逸話があるが、これはどうも怪しい。(物部守屋は587年没大阪府八尾市に墓所がある。)
物部の一族が諏訪に逃れてきたという可能性が無いとは云わないが、守矢氏との関係は無い。
守屋山南方に物部守屋神社があり、守屋山山頂に守屋神社奥宮としての祠があるらしいが、簒奪されたものと考えられ、混乱の元となっている。
まかりなりにも大連であったので、諏訪側も関わらぬようにしてきたのであろうと思われる。
後の時代、守矢氏の系譜に物部氏が入ったとの説があるが不詳。

  • 洩矢神ではなく守矢神と記してきたのは、洩矢には物部守屋伝説の匂いがするからである。

又、戦国期、武田信玄による支配や、織田信長による焼き討ち等受けて混乱する中、不明なことも多い。


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Last-modified: 2015-08-22 (土) 03:15:32 (3163d)