[[『出雲国風土記』]]
[[『出雲国風土記』総記]]
[[『出雲国風土記』意宇郡]] ・ [[『出雲国風土記』意宇郡2]]
[[『出雲国風土記』嶋根郡]] ・ [[『出雲国風土記』秋鹿郡]]
[[『出雲国風土記』楯縫郡]] ・ [[『出雲国風土記』出雲郡]]
[[『出雲国風土記』神門郡]] ・ [[『出雲国風土記』飯石郡]]
[[『出雲国風土記』仁多郡]] ・ [[『出雲国風土記』大原郡]]
[[『出雲国風土記』後記]]

・[[『出雲国風土記』記載の草木鳥獣魚介]]
----

''&color(blue,){『出雲国風土記』意宇郡2};''(おうのこおり2)

(白井文庫k09)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-09.jpg
──────────
大草郷郡家南西二里一百歩須佐乎命之御子
青播佐久佐日古命坐故云大草
山代郷郡家西北三里一百廾歩所造天下大神
大穴持命御子山代日子命坐故云山代也
即正倉
拜志郷郡家正西廾一里二百一十歩所造天下
大神命將平越八口為而幸時此所樹林茂
盛尒時詔吾御心之波志詔故云林&size(9){神龜三年&br;改字拜志};
正倉
完道郷郡家正西卅七里所造天下大神命之
-----
追給猪像南山有二&size(9){一長二丈七尺 高壹丈周&br;五丈七尺一長 二丈五尺};
&size(9){高八尺周&br;四丈壹尺};追猪犬像&size(9){長一丈高四尺&br;周一丈九尺};其形爲石旡異猪
犬至今猶有故云完道
餘戸里郡家正東六里二百六十歩&size(9){依神龜三年&br;編戸大二里};
&size(9){故云餘戸也&br;郡山如也};
野城驛郡家正東廾里八十歩依野城大神坐
故云野城
黒田驛郡家同處郡家西北二里有黒田村
土體色黒故云黒田此處有之驛即號田黒田
驛命東属郡今猶追田黒田号耳
──────────
***&color(navy,){大草郷郡家南西二里一百歩&br;&ruby(スサノヲノ){須佐乎};命之御子青播佐久佐&ruby(ヒコノ){日古};命坐&size(9){マス};故云大草}; [#p7d364f6]

--大草鄕…「出雲風土記抄1帖k20解説」では、「鈔曰大草古今同在于意宇郡也二里一百廾歩今十四町方程共應于大草村合於日吉岩坂大庭佐草以為一郷」とあり、大草郷は、大草に日吉・岩坂・大庭・佐草を合わせて一郷にしたという。

--二里一百歩…゙「二里一百廾歩」に改める。1278.72(m)
・細川家本k10・日御碕本k10・倉野本k10・萬葉緯本k13・萬葉緯本NDLk13・出雲風土記抄1帖k20本文で「二里一百廾歩」

--青播佐久佐日古命…[播](旁は[畨](バン/コメ)で[番]の異体字)
他では「青幡」(アオハタ)が多く用いられている。「青播」であれば(アオバ)であろうか。
・細川家本k10・倉野本k10で「青幡佐久佐丁状命」
・日御碕本k10で「青幡佐久佐&ruby(ヒコノ){日古};命」
・萬葉緯本k13・萬葉緯本NDLk13で「&ruby(アオハタ){青幡};佐久佐&ruby(ヒコノミコト){日古命};」
・上田秋成書入本k09では、「幡」とも「播」とも判別しがたい。「青[十畨]佐久佐日古命」
・「出雲国風土記鈔」「神西氏蔵書写」「出雲国風土記考証」「出雲国風土記解」「標注古風土記」「岩波文庫風土記」ではいずれも「青幡佐久佐日古命」としている。
「校注出雲国風土記」では「青幡佐久佐丁壮命」
---丁壮を(ヒコ)と読むのはいかにも無理がある。丁は干支の(ヒノト)であろうが、壮を(コ)と読むのは(ヲノコ)の意か。誤字か読み違いか。「丁壮(テイソウ)」は(働き盛りの男子)の意味であるが、労働力として見下した含意がある。特別な理由が無い限り、むやみに使うべきではない。(神位授与記録からの転用と思われる)
--青播佐久佐日古命坐故云大草…「佐久佐比古」は(サクサヒコ)と読み、「大草」は現在(オオクサ)と読む。神名と地名が直接には結びつかない。
八重垣神社のある辺りから南方が佐草という地名。六所神社[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.427001/133.104236/]]のある辺りが大草。
---「大草」をかつては(サクサ)と読んでいたという説。又元は佐草郷で後に大草郷に変えたとか、幸草が転じたとか、
久佐郷に大の字を加えたとか、色々議論がある。(いずれも根拠の薄い憶測)
---『出雲国風土記』大原郡の高麻山の記述によれば、青播佐久佐日古命は麻を育てた神のようである。
麻は丈2(m) を越す一年生草本であり、古代から衣服などに用いる重要な植物であった。これからすると大草とは麻のことであり、それに因る郷名が大草郷と考えられる。
即ち、「大草(麻)を育てた青播佐久佐日古命が坐す所だったので大草郷と呼んだ」ということである。
神名は「幡」=(旗)より「播」=(種を播く)の方が妥当であろう。
---地名由来とも絡み、延喜式の佐久佐神社が何処かと云うことが問題となってきた。
六所神社は出雲国総社として、六ヶ所に別れていた神社をまとめたものとも、六神を奉ったともいうが、青播佐久佐日古命は六神に含まず佐草氏の私社(氏の神)として境内に奉ってきた。
風土記編纂の頃には、佐久佐社は六所神社内にあったのであるから、延喜式も含め六所神社の境内社が「佐久佐神社」であると言える。六所神社は大草の地にあるから、風土記ではそのように記したのであろう。
八重垣神社では明治以前、青播佐久佐日古命を脇社で奉ってきており、佐久佐神社を称するのは社格を得るための作為であったにすぎず、佐久佐神社ではない。
[[佐久佐社:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?-%E4%BD%90%E4%B9%85%E4%BD%90%E7%A4%BE]]

&color(darkgreen,){大草郷、郡家の南西二里一百二十歩。&br;須佐乎命之御子青播佐久佐日古命坐す。故に大草という。};


***&color(navy,){山代郷郡家西北三里一百廾歩&br;所造天下大神大穴持命御子山代日子命坐故云山代也即有正倉};[#mbad60ce]

--三里一百廾歩…1811.52(m)

--「即正倉」は「即有正倉」に改める…校注出雲国風土記・上田秋成書入本・神西氏蔵書写本ではいずれも「即有正倉」
--山代日子命…松江市古志原町73「山代神社」[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.440044/133.081158/]]に祀られている。元社地は東南の茶臼山で「高森明神」と呼ばれていた。[[『雲陽誌』]]意宇郷参考

&color(darkgreen,){山代郷、郡家の西北三里一百二十歩。&br;所造天下大神大穴持命の御子、山代日子命坐す。故に山代と云う也。 即ち正倉あり。};

***&color(navy,){拜志郷 郡家正西廾一里二百一十歩}; [#r1d817ce]

&color(darkgreen,){&ruby(ハヤシノゴウ){拜志郷};。郡家の正に西二十一里二百一十歩};

***&color(navy,){所造天下大神命將平越八口為而幸時此所樹林茂盛尒時詔吾御心之波志詔故云林}; [#f35291de]

--幸時…「幸」は(みゆき)とも読むことから「御行」に通じ「行幸」のように用いられた。

--波志…諸本「波夜志」であるから改める。
・細川家本k10・日御碕本k10・倉野本k10・萬葉緯本k14・出雲風土記抄-1帖-k24で「波夜志」

--御心之波夜志…波夜志は「&ruby(ハ){栄};やし」と同意で晴れ晴れするとか勇気が湧くなどの意味を表す。
それを林にかけた表現で、新緑の頃、木々が勢いよく成長する様子を見て心が栄えることをさして「心の林」のように用いられた。

--樹林茂盛…日御碕本k10の読みに従えば(ジュリンハンモス)であろう。
・訂正出雲風土記-上-k16では(キシゲレリ)と読んでいる。

&color(darkgreen,){所造天下大神命、將に越の八口を平げむと&ruby(ミユキ){幸};し時に、&ruby(コノトコロ){此所};に樹林茂盛す。時に詔て吾が御心の&ruby(ハヤシ){波夜志};と詔う。故に林と云う};


***&color(navy,){神龜三年改字拜志正倉}; [#b113f808]
&color(darkgreen,){神龜三年字を拜志に改める。正倉有り};

***&color(navy,){完道郷郡家正西卅七里}; [#h25cba40]

&color(darkgreen,){完道郷、郡家の正に西、三十七里};

***&color(navy,){所造天下大神命之追給猪像南山有二&size(9){一長二丈七尺 高壹丈周 五丈七尺一長 二丈五尺 高八尺周四丈壹尺};}; [#p96c3e27]

&color(darkgreen,){所造天下大神命の追い給いし&ruby(シシ){猪};の像、南山に二つ有。(一つは長さ二丈七尺、高さ壹丈、周り五丈七尺。一つは長さ二丈五尺、高さ八尺、周り四丈壹尺)};

--二丈七尺=7.99(m) 一丈=2.96(m)、五丈七尺=16.87(m) 
二丈五尺=7.4(m) 、八尺=2.37(m) 、四丈一尺=12.14(m)  

***&color(navy,){追猪犬像長一丈高四尺周一丈九尺其形爲石旡異猪犬至今猶有故云完道}; [#f26b59fe]

&color(darkgreen,){猪を追いし犬の像、(長さ一丈、高さ四尺、周り一丈九尺)その形石となりて猪と犬とに異なることなし。今に至りても猶有り、故に完道と云う};

--一丈=2.96(m) 、4尺=1.18(m) 、一丈九尺=5.62(m) 

--松江市宍道町&ruby(ハクイシ){白石};の[[「石宮神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E7%99%BD%E7%9F%B3638%E3%80%8C%E7%9F%B3%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]] [[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.404722/132.928326/]]
大己貴命が猪狩りをした時、猪を追った犬が石となり、それを御神体としたという。鳥居両側にも巨石があり、猪が石になったという。「宍道社」とも記される。
延喜式神名帳に「&ruby(シシミチ){完道};神社」。
---校注出雲国風土記では「宍道」としているが、延喜式に「完道神社」とあるので、「完道」のままにしておく。
出雲風土記抄は「完道」と記し(シンヂ)とルビをふっている。
上田秋成書入本でも「完道」とあり、赤字で「宍」と注記している。
「完道」のシシミチは「猪道」。
「完」には、垣で囲むの意味がある。石宮神社に本殿はなく御神体の石を垣で囲んでいるだけである。
---無論犬や猪が石に変わる事はあり得ない。何らかの伝承を説話にしたのであろう。

***&color(navy,){餘戸里郡家正東六里二百六十歩&size(9){依神龜三年編戸大二里故云餘戸也郡山如也};}; [#bcb5003c]

&color(darkgreen,){&ruby(アマルベノサト){餘戸里};、郡家の正に東六里二百六十歩};

&color(darkgreen,){神龜三年編戸に依り大二里とす、故に餘戸と云う也。郡山の如き也};
--神亀三年…726年
---ここの付記部分は、色々改変されている例がある。
(上田秋成書入本は本書と同じ。但し「餘」を「飯」と誤記し赤字で「餘」と書入)
千家俊信は「訂正出雲国風土記」-上-k17で「大二里」を「天平里」と改変(根拠不明。天平は神亀の後でありえない)。
校注出雲国風土記では「依神龜四年編戸天平里故云餘戸他郡且如之」


***&color(navy,){野城驛郡家正東廾里八十歩}; [#r00d4f06]
&color(darkgreen,){野城駅、郡家の正に東二十里八十歩};
--野城は現在の能義とされる。「野城」は(ノギ)或いは(ヌキ)と読まれる。
--「驛」…駅家(えきか・うまや)。街道の30里(大宝律令の古代里で約16km)ごとに置かれた交通の拠点。馬の餌や水なども整備されていたので(うまや)とも読む。兵部省の管轄であったことから軍事的施設・兵站の性格を持っていた事が窺える。

***&color(navy,){依野城大神坐故云野城}; [#c7c0449b]
&color(darkgreen,){野城大神坐すに依り、野城と云う。};
---野城大神というのは現在「天穂日命」とされるが、異説もあり、事跡が何も残っていない為、実は良く解っていない。
(出雲では、解らなくなると国造系に取り込まれる傾向がある)

***&color(navy,){黒田驛郡家同處郡家西北二里有黒田村}; [#vd3b7b3f]

&color(darkgreen,){黒田驛、郡家と同處。郡家の西北二里に黒田村有り。};

***&color(navy,){土體色黒故云黒田此處有之驛即號田黒田驛命東属郡今猶追田黒田号耳}; [#w2c3d0fb]

&color(darkgreen,){&ruby(ツチ){土體};色黒し。故に黒田と云う。此處に有りし驛は即ち号して田黒田の驛と&ruby(ナヅ){命};く。東は郡に属し、今なお田黒田と号するを追うのみ};

--黒田の駅は諸本で異同がある。おそらく風土記抄が最も正しいと考えられるので以下に掲載しておく。
『出雲風土記抄』第一帖のp28
&color(navy,){「黒田驛郡家同處郡家西北二里有&size(9){リ};黒田村土體色黒&size(9){シ};故&size(9){ニ};云黒田&size(9){ト};&ruby(モト){舊};此&size(9){ノ};處&size(9){ニ};有&size(9){リ};是&size(9){ノ};驛即號&size(9){テ};曰黒田&size(9){ノ};駅&size(9){ト};今&size(9){ハ};郡家&size(9){ノ};属&size(9){ス};東&size(9){ニ};今猶&size(9){ヲ};追&size(9){テ};舊&size(9){ニ};黒田&size(9){ト};號&size(9){ツル};&ruby(ノミ){耳};」};
&color(darkgreen,){(黒田驛、郡家と同處。郡家の西北二里黒田村有り。&ruby(ツチ){土體};色黒し。故に黒田と云う。&ruby(モト){舊};此の處に是の駅有り。即ち號して黒田の駅と曰う。今は郡家の東に属す。今なお舊を追いて黒田と號つるのみ。)};
--黒田村…松江市大庭町に黒田&ruby(ウネ){畦};という地区(神魂神社北方)があるので元地はこの辺りであろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.428575/133.083637/]]
---1995年3月刊の「黒田畦遺跡発掘調査報告書(松江市教育委員会)」によれば、下層に黒褐色土層が見られる。
---「今&size(9){ハ};郡家&size(9){ノ};属&size(9){ス};東&size(9){ニ};」というのは、驛家が郡家の東に移転した事を指しているのだと思われる。移転後も元地の黒田驛家という名を引き継いだのであろう。

--『校注出雲国風土記』p108
「黒田驛、郡家同處。郡家西北二里有黒田村。土體色黒。故云黒田。舊此處有是驛。即號曰黒田驛。今東屬郡。今猶追舊黒田號耳。」

--『上田秋成書入本』10コマ
「里田驛郡家同處郡家西北二里有黒田村上體色黒故云黒田旧此處有是驛即号曰黒田驛今東属郡今猶追旧黒田号耳」
(最初の「里」には「黒」と赤字で書入れあり。「上體」には書入れ無し。)

---僅かな文字の違いでも、読み方や解釈が違ってくる例として載せてみた。(息抜きの遊び)

--神魂神社神主秋上得国が、天明6年(1786)2月15日、出雲を訪れた内山眞龍に『さらば先、八雲立と詔ませし八重垣、意宇、熊野、伊邪那枝、揖屋、神魂の社を拝ませ。其道のゆきてに有りし黒田の駅は、三百年計の昔、笠の長者某と云人の往ける時、火つきて焼たり。其後意宇町と云ちひさきまち有しも、寛永十三年松江の城を築てより、移りなどして絶たり。今は黒き土のみ残れるをしるべとして、そこより四方を見はるかし、~』と語ったことが眞龍の「出雲日記」にある。

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(白井文庫k10)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-10.jpg
──────────
完道驛郡家正西卅里&size(9){説名如郷};
出雲神戸郡家南西二里廾歩伊弉奈枳乃麻
奈子坐熊野加武呂乃命與玉百津鉏〃猶所取
〃而所造天下大穴持二所大神等依奉故云
神戸&size(9){他郡等神&br;戸且如之};
賀茂神戸郡家東南卅四里所造天下大神命
之御子阿遅須枳高日子命坐葛城賀茂社此神
之御子戸故云鴨&size(9){神亀三年&br;改字賀茂};即有正倉
忌部神戸郡家正西廾一里五百六十歩国造神
吉調望参向朝廷時御沐之忌玉故云忌部
-----
即川邉出湯出湯在所兼海陸仍男女老少或道路駱々
驛或海中沼洲曰集成予續紛燕樂一濯則形容端正耳
詠則万病悉除自古至今無不得驗故俗人曰神湯也
[寺]
教昊寺在山城郷中郡家正東廾五里一百廾歩建立
五層之塔&size(9){在&br;僧};教昊僧支所造也&size(9){散位大初位下上腹首&br;押猪之祖父也};
新造院一所山代郷中郡家西北四里二百歩建立
巌堂也&size(9){旡&br;僧};置君烈之所造&size(9){山雲神戸置君&br;麻麿之祖也};造院一所有
山代郷中郡家西北二里建立教堂&size(9){住僧&br;一軀};飯石郡
少領出雲臣弟山之所造也院一所有山国郷
中郡家東南一里百廾歩建立三層之塔也山国

──────────
***&color(navy,){完道驛郡家正西卅里&size(9){説名如郷};}; [#m037c3bf]

&color(darkgreen,){完道驛、郡家の正に西三十里。(名を説くこと郷の如し)};

--三十里…15984(m)

--説名如郷…完道という地名の説明は完道郷と同じ

***&color(navy,){出雲神戸郡家南西二里廾歩}; [#wb512b77]

&color(darkgreen,){出雲神戸。郡家の南西二里二十歩};

***&color(navy,){伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命與玉百津鉏〃猶所取〃而所造天下大穴持二所大神等依奉}; [#r6527591]

&color(darkgreen,){&ruby(イザナギノマナゴ){伊弉奈枳乃麻奈子};に&ruby(マ){坐};す&ruby(クマノカムロノミコト){熊野加武呂乃命};と、&ruby(タマモモツスキ){玉百津鉏};鉏なお&ruby(トリ){所取};しに取らす&ruby(アメノシタツクラシシオオアナモチ){所造天下大穴持};の&ruby(フタトコロ){二所};の大神等に&ruby(ヨ){依};さし奉る。};

--「玉百津鉏」…校注出雲国風土記では「五百津鉏」

***&color(navy,){故云神戸&size(9){他郡等神&br;戸且加之};}; [#hc040864]

&color(darkgreen,){故、神戸と云う。&size(9){他の郡等の神戸もまた之の如し};};

***&color(navy,){賀茂神戸郡家東南卅四里}; [#kae222b0]

&color(darkgreen,){賀茂の神戸。郡家の東南三十四里};

--三十四里…18115.2(m)
--安来市の「賀茂神社」(安来市利弘町521)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.388263/133.228755/]]で阿遅須枳高日子命を祀っているからこの辺りであろう。
ちなみに安来市加茂に加茂神社(安来市安来町541)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.415058/133.239484/]]というのがあるが、778年勧請とのことで出雲国風土記奏上(732年)以後の創建のようである。(「賀茂神社」と記していることもある。)

***&color(navy,){所造天下大神命之御子阿遅須枳高日子命坐葛城賀茂社}; [#qe427b5c]

&color(darkgreen,){所造天下大神命の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。};

***&color(navy,){此神之御子戸故云鴨&size(9){神亀三年改字賀茂};即有正倉}; [#qa6c8451]
&color(darkgreen,){此の神の御子戸故に鴨と云う。(神亀三年、字を賀茂と改む) 即ち正倉あり。};

--「此神之御子戸故云鴨」…校注出雲国風土記では「此神之神戸。故云鴨」
上田秋成書入本では「此神之神子戸故云鴨」
---「御子戸」も「神子戸」も共に(ミコト)即ち「命」と読むべきもので、「神戸」に変えるのは疑問。

***&color(navy,){忌部神戸郡家正西廾一里五百六十歩&br;国造神吉調望参向朝廷時御沐之忌玉故云忌部}; [#p46fbddf]

--廾一里五百六十歩…21里560歩は奇妙である。300歩を超えれば里に換算するはず。
「廾一里二百六十歩」に改める。11650.56(m)
・細川家本k12・日御﨑本k12・倉野本k12・萬葉緯本k15・萬葉緯本NDLk15・出雲風土記抄1帖k32本文で「廾一里二百六十歩」

--調望…標注古風土記によれば、多くの古写本は「調望」のまま。国造家本では「詞望」。「詞奏」は内山眞龍による改変。
校注出雲国風土記では「詞奏」

>・細川家本では
「忌部神戸郡家正西廾一里二百六十歩 国造神吉調望参向朝廷時御沐之忌玉作故云忌部」

&color(darkgreen,){忌部神戸、郡家の正に西二十一里二百六十歩。&br;&ruby(クニノミヤッコ){国造};、&ruby(カムヨゴト){神吉};を&ruby(ミカド){朝廷};に&ruby(マムカ){参向};う時、&ruby(ミソギ){御沐};の&ruby(イミタマ){忌玉};を&ruby(トトノ){調};えんと望む。故に忌部と云う。};

***&color(navy,){即川邉出湯出湯在所兼海陸}; [#p87165dd]

&color(darkgreen,){即ち川辺に湯&ruby(イズ){出};る。湯出るところは海陸を兼ねたり。};

--川辺出湯…玉造温泉のこと。
--兼海陸…海路からも陸路からも行くことが出来る。

***&color(navy,){仍男女老少或道路駱々驛或海中沼洲曰集成予續紛燕樂}; [#x4fc6165]

&color(darkgreen,){&ruby(ヨ){仍};りて男女老少、或いは道路駱に駱驛し、或いは海の中、沼の洲に、曰に&ruby(ツド){集};い&ruby(タノシミ){予};と成り、續紛燕樂す。};

--道路駱々驛…「駱」は黒いたてがみのある白馬。「駱驛」は人馬の往来が盛んな様子。即ち(道路に人馬盛んに行き交い)の意。
--海中沼州…海中で、本流から離れて水を招き入れたような場所。船寄せ場。ここに云う海は宍道湖。即ち(宍道湖で船の集まる場所)の意
--成予…「予」は楽しみ。即ち(楽しみと成る)
--續紛燕樂…「續」は連なる。「紛」は混雑する。「燕樂」は宴会の音楽。即ち(多くの人が宴を楽しむ)の意。
---意訳すると(そうして、老若男女、陸路で集い、海路で集い、日々集まる楽しみとなり、宴の場所となっている)

--校注出雲国風土記では「仍男女老少或道路駱驛或海中沿洲曰集成市續紛燕樂」としており、3ヶ所異なる。
「駱」を一文字抜き、「沼」→「沿」、「予」→「市」。

***&color(navy,){一濯則形容端正耳詠則万病悉除}; [#d667f71e]

&color(darkgreen,){&ruby(ヒトススギ){一濯};で則ち&ruby(スガタ){形容};端正となり、&ruby(ヨ){詠};み&ruby(キ){耳};くに則ち万病悉く除く。};

***&color(navy,){自古至今無不得驗故俗人曰神湯也}; [#bdd81132]

&color(darkgreen,){&ruby(イニシエ){古};より今に至るに、&ruby(シルシ){驗};を得ぬこと無し。故に&ruby(ヒトビト){俗人};&ruby(カミノユ){神湯};と&ruby(イ){曰};う也};

--俗人…一般の人々。出家僧に対する語。


***&color(navy,){[寺]}; [#ye46ff7b]
***&color(navy,){教昊寺在山城郷中郡家正東廾五里一百廾歩}; [#yd5c5ce4]

&color(darkgreen,){&ruby(キョウコウジ){教昊寺};在り。山城郷の中。郡家の正に東二十五里一百二十歩};

--山城郷…上田秋成書入本でも「山城郷」。山城郷は位置不明。山国郷の誤記であろう。山国郷からは後に能義郷(野城郷)が別れており、その間の呼び方であったのかもしれない。
・細川家本k12・倉野本k12で「山國郷」
・日御碕本k12で「山城郷」
・出雲風土記抄-1帖-k33本文で「舎人郷」
・萬葉緯本NDLk15で「舎人郷」(山城を傍記)
・校注出雲風土記では「舎人郷」

--廾五里一百廾歩…13533(m)

***&color(navy,){建立五層之塔&size(9){在僧};}; [#j8c051ba]

&color(darkgreen,){五層の塔を建立す。(僧在り)};

--野方町[[「神藏神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8B%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E9%87%8E%E6%96%B9%E7%94%BA247%E3%80%8C%E7%A5%9E%E8%97%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]の社基壇部に大石が用いられており、この石が教昊寺五重塔の礎石と考えられている。

***&color(navy,){教昊僧支所造也&size(9){散位大初位下上腹首押猪之祖父也};}; [#s57aa6a6]

&color(darkgreen,){教昊僧の造りし所なり。(散位大初位下、上腹首押猪の祖父也)};
--教昊僧…教昊という名の僧。新羅からの帰化僧であろうと考えられている。
--教昊寺…長く所在が議論されているが、2005年に安来市野方町真崎の野方廃寺が発掘調査され教昊寺跡として遺跡指定された。新羅系瓦が出土した。(但しあくまで推定)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.390126/133.248678/]]
・[[「教昊寺」第1次発掘調査概報1985年安来市教区委員会:http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/2030]]
・[[「教昊寺」第2次発掘調査概報1986年安来市教区委員会:http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/2979]]

・出雲国出雲国風土記考証p36解説で「教昊寺は野城橋から古の四里一百二十歩であるから、位置は澤村にあたる。それで私は、大正六年に、澤村の中、野方との堺に近き土居ゾネといふ所から、天平時代の唐草模様ある瓦片が出ることを見出し、そこが教昊寺跡であらうと断定した。
風土鈔や風土記考に今の清水寺かといひ、又さもあるべしといつて居れども、清水寺では本文の里程に合わぬ。そして清水寺は天平五年より七十三年後の大同元年の創立といふ。
有僧とは民部省の處分を經て度帳を持つた僧が居るといふ。賛位とは官なくして位のみあるをいふ。~」とある。
土居ゾネ(どいぞね)というのは「神藏神社」の南西方向にある小丘を云う。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#17/35.389527/133.247391]]
ここには発掘調査で溝状遺構が確認されている。
---出雲風土記抄-2帖-k33の解説で岸崎は清水村・清水寺を記し、安来市島田町の天台宗瑞光山清水寺ではないかと考えていたようであり、後藤はそれでは里程が合わぬとしているわけだが、野方町南西の山も又清水山(標高107m)という。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.384799/133.237553/]]。「神藏神社」にせよ、「どいぞね」にせよ、新羅瓦は出土しているが寺院跡は発掘されて居らず、未だに教昊寺がどこにあったのかは定かではない。
思うに、岸崎は清水山に教昊寺があったと見聞し、それで瑞光山清水寺かと考えたのではないかと思われる。
野方町南西の清水山には現在寺院はなく、又調査も行われていないようだが、この山中に教昊寺があったのではないかと考え得る。
五重塔がある寺院というのはかなり大きな規模のものであったであろう。

--散位…官を辞して位階だけあるもの。
--上腹首押猪(カミノタジヒノオビトオシイ)…「腹」としているのは、書影では[月夏]。蝮の異体字であろう。
タジヒは蛇の「蝮」(マムシ)の事であり、好字として[月夏]に変えたと思われる。


***&color(navy,){新造院一所山代郷中郡家西北四里二百歩&br;建立巌堂也&size(9){旡僧};置君烈之所造&size(9){山雲神戸置君麻麿之祖也};}; [#n9150c67]

&color(darkgreen,){新造院&ruby(ヒトトコロ){一所};。山代郷中、郡家の西北四里二百歩&br;巌堂を建立する也(僧無し)。置君烈の造るところ(山雲神戸の置君麻麿の祖也)};

--四里二百歩…2486.40(m)

--「置君烈」…
・細川家本k12・倉野本k12で「置君目烈」。共に目とも自とも見える。
・日御﨑本k12・万葉緯本k16・万葉緯本NDLk15・鶏頭院天忠本k11・出雲風土記抄1帖k33本文で「置君自烈」。これらは明らかに目ではなく自である。
・紅葉山本k10で「置君烈」
・上田秋成書入本k11で、「置君自㤠」傍記で[烈イ]
・出雲風土記解k34本文で「置君自熊」[熊]に[烈&size(9){一古本};]を傍記
・田中卓「校訂・出雲国風土記」p37で「日置君目烈」とし、頭注で(出雲ニ「目烈」ノ人名アリシハ天平十一年の歴名帳ニ見エ、「列」は「烈」ニ同ジキコト天平十九年法隆寺縁起ニ例アレバ、「目烈」ヲ是トスベシ)と記している。
(「歴名帳」は「出雲国大税賑給歴名帳」のことであろう。正倉院文書の巻子であるがnet上に内容公開されていないので現状田中の説を検証できない。島根県立図書館に写真版があるらしいが未見。)
・校注出雲国風土記では「日置君&ruby(メヅラ){目烈};」 
・山川板ではp87で「日置君目烈」と改変。又後の「出雲神戸置君」を「出雲神戸日置君」と改変。
---諸本「置君」とあるのを「日置君」としたのは田中卓のようである。諸本に[日]は無いことを認めつつもp36頭註で(当時ノ文例ニヨリ補フ)としている。置君が日置君であるという置き換えは今一度の考察を要す。当時の文例というなら、何故出雲国風土記では置君と記していたのか、出雲国風土記は当時の文例ではないとでも云うのか、田中卓は何の説明もしていない。
諸本「置君」とあるのであるから、これを「日置君」に変える積極的理由はない。
日置氏では「日置臣志毘」の名が知られるが、[臣]であって[君]ではない。
又、出雲計会帳に「大原郡人日置部首」の名が見えるが、これも[部]であって[君]ではない。
君・臣・部では、それぞれ立場が異なる事は言うまでも無い。
日置氏には複数の系統があるようである。日置をヒオキと呼ぶ場合鹿児島方面の一族であり、ヘキと呼ぶ場合元は山口県長門方面の一族と考えられている。又、後には土師氏から別れたとされるものもいる。
新撰姓氏録では高麗系とされる。
又別に名負氏の一つで本拠は大和国葛上郡日置鄕であり、鴨氏と同族とされ阿治須伎託根神を祀る鴨氏に対し、その妻の阿麻乃弥加都比女神を祀ってきたのが日置氏だという。
出雲国風土記に記された置君が日置氏であるかどうかは定かではない。
「君」と呼ばれているのであるから、中央王権とは一定独立した勢力であったと考えられる。
日置は臣であるから、中央王権に屈した呼び方である。
つまり、置君を日置君と変えるのは、そういう経緯を無視することになる。
置君と日置氏については又稿を改めるつもりであるが、重ねて記しておくと、『出雲国風土記』に記されているのは「置君」であり「日置君」ではない。

--「山雲神戸置君麻呂」…出雲風土記抄1帖k33本文で「出雲神戸置君猪麻呂」
上田秋成書入本では「山雲神戸置君鹿麻呂」、
校注出雲国風土記では「出雲神戸日置君鹿麻呂」

(一応記しておくと、後藤はここでの記述を次の郡家西北二里の記述と勘違いしている。)

***&color(navy,){造院一所有山代郷中郡家西北二里&br;建立教堂&size(9){住僧一軀};飯石郡少領出雲臣弟山之所造也}; [#j4f31cb4]

&color(darkgreen,){造院一所。山代郷中にあり。郡家の西北二里。&br;教堂建立す。(住める僧一躯)飯石郡の少領、出雲臣弟山の造りし所也};

--造院…
・細川家本k12、日御﨑本k12、倉野本k12、紅葉山本k11で、「造院」
・萬葉緯本k16、萬葉緯本NDLk15、出雲風土記抄1帖k33本文で「新造院」
・校注出雲国風土記では「新造院」

--二里…1065.60(m)

--教堂…
・細川家本k12、日御碕本k12、倉野本k12、紅葉山本k11で「教堂」
・萬葉緯本k16、萬葉緯本NDLk15、出雲風土記抄1帖k34本文で「嚴堂」
・校注出雲国風土記では「巌堂」
---嚴堂(厳堂ゴンドウ)はいわゆる本堂であり本尊を安置する建物。教堂は講堂であり学僧の学習場所を云う。
教堂とあるの嚴堂と変えるのは疑問。

***&color(navy,){院一所有山国郷中郡家東南一里百廾歩&br;建立三層之塔也山国郷人置郡根緒之所造也}; [#t3d4b172]

--院一所有…「新造院一所有」の誤写であろう。
・細川家本k12、日御碕本k12、倉野本k12、紅葉山本k11・上田秋成書入本k11で「新造院一所有」
・萬葉緯本k16・萬葉緯本NDLk16・出雲風土記抄1帖k34本文で「新造院一所在」
・鶏頭院天忠本k11で「新造院一在」
・出雲風土記解-上-k34本文で「新造院一所○」(○に在を傍記)
・訂正出雲国風土記-上-k19で「新造院一所在」

--一里百廾歩…745.92(m)

--置郡根緒…
・細川家本k13、倉野本k13で「置郡根緒」
・日御碕本k13で「置郡&ruby(ネヲカ){根緒};」
・紅葉山本k11で「置郡根&size(9){ノ};緒」
・春満考江守本k13、春満考内閣文庫k13で「置郡根緒 今案郡ハ部の誤りなるへし」
・鶏頭院天忠本k11で「置郡根楮」([郡]に[君欤ィ]と傍記。[楮]に[緒ィ]と傍記)
・上田秋成書入本k11で「置郡根緒」([郡]に[部ヵ]と朱書き)
・出雲風土記解k35本文で「置部&size(9){ノ};根緒」解説で(置部ハ神戸&size(9){ノ};郡置&size(9){ノ};鄕尓奈留氏也.)
・訂正出雲国風土記-上-k19で「置部根緒」
・出雲国風土記考証p38本文で「置部根緒」
・出雲国風土記の研究(校訂・出雲国風土記)p36で「日置部根緒」頭註で(当時ノ文例及ビ解本ニヨリ改ム。)
・校注出雲国風土記には、「日置部根緒」とある
・山川版p87では「&color(red,){日置部};根緒」と改変。
---「置君根緒」か「置部根緒」かいずれかの誤りと思われるが定かではない。
一応春満の説に従って「置部根緒」としておくが田中や加藤の記す「日置部根緒」ではない。

&color(darkgreen,){新造院一所山国郷中に有り。郡家の東南一里百二十歩。&br;三層の塔を建立する也。山国郷の人、置部&ruby(ネオ){根緒};の造りし所也。};

----
(白井文庫k11)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-11.jpg
──────────
郷人置郡根緒之所造也
[社]
熊野大社  夜麻佐社   賣豆貴社   加豆比乃社
由貴社   加豆比乃高社 都俾志呂社  玉作湯社
野城社   伊布夜社   支麻知社   夜麻佐社
 城社   久多美社   佐久多社   多乃毛社
須多社   眞名井社   布辨社    斯保祢社
意院之社  即原社    久來社    布吾祢社
寄道社   野代社    賣布社    狭井社
同狭井高社 牢流布社   伊布夜社   由宇社
布自奈社  同布自奈社  野代社    佐久多社
-----
意院支社  前社     田中社    詔門社
楯井社   遠玉社    石塚社    佐久佐社
多加比社  山代社    詞屋社    同社 &size(9){以上廾八&br;所置}; &size(8){但シ四十七社&br;見ユル廾八トハ&br;不審ナリ};
在社祇宮  宇田比社   支布佐社   毛社乃社
郡富乃夜社 支布佐社   国原社    田村社
予穂社   同予穂社   伊布夜社   阿太加夜社
須多下社  河原社    布字社    米郡為社
加和罗社  笠柄社    志多備社   食師 &size(9){以上十九所&br;置在神祇官}; &size(8){但シ支布佐社&br;ニ所見ル是ヲ&br;合テ二十所&br;アリ};
[山]
長江山 郡家東南五十里&size(9){有水精};
暑垣山 郡家正東八十歩&size(9){有蜂}; &size(8){蜂欤トアリ};
──────────

***&color(navy,){熊野大社  夜麻佐社   賣豆貴社   加豆比乃社}; [#m2a130c2]

--熊野大社…八雲町熊野の[[「熊野大社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%94%BA%E7%86%8A%E9%87%8E2451%E3%80%8C%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--夜麻佐社…後に今一つ「夜麻佐社」が記される。
共に今は「山狭神社」と記され、いわゆる[[「上山狭神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%BA%83%E7%80%AC%E7%94%BA%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E4%BD%90598%E3%80%8C%E5%B1%B1%E7%8B%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D%EF%BC%88%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E7%8B%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89]]・[[「下山狭神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%BA%83%E7%80%AC%E7%94%BA%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E4%BD%901176%E3%80%8C%E5%B1%B1%E7%8B%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D%EF%BC%88%E4%B8%8B%E5%B1%B1%E7%8B%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89]]の二社を指すのであろう。
延喜式には「山狭神社 同社坐久志美氣濃神社」とあり、これは一所と考えられ、二社は記されていないことから、上山狭神社と下山狭神社間でいずれが延喜式内社かという争いが続いている。
雲陽誌では「上山狭神社」を延喜式内社としている。
---思うに「上山狭神社」は水害などのため現在地に落ち着くまでには度々移転を繰り返していることから、延喜式の頃に偶々社殿が失われており記載されなかったのではないかと考え得る。とは言え二社の社格に差異が生ずるものではない。争うこと自体が無意味である。

--賣豆貴社…松江市雑賀町の[[「賣豆紀神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E9%9B%91%E8%B3%80%E7%94%BA1663%E3%80%8C%E8%B3%A3%E8%B1%86%E7%B4%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]。

--加豆比乃社…後に「加豆比乃高社」が記されている。
「加豆比乃高社」は[[「勝日高守神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%BA%83%E7%80%AC%E7%94%BA%E5%AF%8C%E7%94%B0782%E3%80%8C%E5%8B%9D%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%AE%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]、「加豆比乃社」は「富田八幡宮」境内[[「勝日神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%BA%83%E7%80%AC%E7%94%BA%E5%BA%83%E7%80%AC85%E3%80%8C%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E3%80%8D%E3%80%8C%E5%8B%9D%E6%97%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]を指す。
延喜式で「勝日神社」「勝日高守神社」
かつてはともに今の広瀬町「月山富田城」で有名な月山にあった。縁起には少々混乱が見られる。
>○古事記によれば、大國主神が少名毘古那神と共に國を造り堅めた後、少名毘古那神が常世國に渡り、大國主神が愁いていた際に、海を照らしてやって来る神があったという。
書記では巻1の一書において同様の事が記され、大己貴神がその神の名を問うと「吾は是汝が幸魂奇魂なり」と答えたという。
これにより、月山の頂きにこの神を祭り、中腹に大己貴神を祭ったのが、それぞれ「加豆比乃高社」「加豆比乃社」であるという。
「加豆比」の[豆]は&ruby(タカツキ){高坏};の象形である。[比]は並んだ形。すなわち「加豆比」は高坏を2つ並べて供える事を意味する。月山の元の社が月読尊を奉っていたと考えられることから、大己貴神が月読尊に高坏を供えて奉じたというのが社名の由来であろう。
社殿の造営は欽明天皇31年であり「勝日高守神社」「勝日神社」の創建とされる。この後山名を勝日山と呼ぶようになったという。
「勝日」というのは(日に勝る)という意味であろうから、ここから見える月が美しいことを表しているのかと思われる。
その後平安の末期、平景清がこの山に城を築くに際し、勝日神社を麓に移すこととし、山上から矢を射て、矢の届いた地に移したのが今の「富田八幡宮」境内の「勝日神社」であるという。
---余談だが、欽明31年創建と伝える社寺は九州北部にかなり多くある。この年は蘇我稲目が亡くなった年とされ、何らかの関係があるのかとも思われる。


***&color(navy,){由貴社   加豆比乃高社 都俾志呂社  玉作湯社}; [#c73bafcf]

--由貴社…
松江市馬潟町の[[「由貴神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E9%A6%AC%E6%BD%9F%E7%94%BA266%E3%80%8C%E7%94%B1%E8%B2%B4%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--加豆比乃高社…上述

--都俾志呂社…
安来市広瀬町広瀬の[[「都辨志呂神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%BA%83%E7%80%AC%E7%94%BA%E5%BA%83%E7%80%AC1415%E3%80%8C%E9%83%BD%E8%BE%A8%E5%BF%97%E5%91%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--玉作湯社…
松江市玉湯町玉造の[[「玉作湯神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E7%8E%89%E6%B9%AF%E7%94%BA%E7%8E%89%E9%80%A0508%E3%80%8C%E7%8E%89%E4%BD%9C%E6%B9%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

***&color(navy,){野城社   伊布夜社   支麻知社   夜麻佐社}; [#i2e1ce43]

--野城社…安来市能義町の[[「能義神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E8%83%BD%E7%BE%A9%E7%94%BA366%E3%80%8C%E8%83%BD%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--伊布夜社…松江市東出雲町揖屋の[[「揖夜神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%94%BA%E6%8F%96%E5%B1%8B2229%E3%80%8C%E6%8F%96%E5%A4%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--支麻知社…松江市宍道町上来待の[[「来待神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E4%B8%8A%E6%9D%A5%E5%BE%85242%E3%80%8C%E6%9D%A5%E5%BE%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--夜麻佐社…「山狭神社」(既述)
・安来市広瀬町上山佐の「山狭神社」(上山狭神社)
・安来市広瀬町下山佐の「山狭神社」(下山狭神社)

***&color(navy,){ 城社   久多美社   佐久多社   多乃毛社}; [#wa1891ff]

--城社…松江市乃白町779[[「野白神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E4%B9%83%E7%99%BD%E7%94%BA779%E3%80%8C%E9%87%8E%E7%99%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]の元社。今は遺跡公園となっている田和山山中にあり元社の基壇が残っていたという。が、現状落ち葉などが堆積して未確認。山中に石祠があるが基壇のあった場所では無いように思われる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#18/35.436222/133.053376/]]
・細川家本k13・日御碕本k13・倉野本k13で「城社」
・万葉緯本NDLk16で「野城社」
・出雲風土記抄-1帖-k35本文で「野白社」解説で「野白社者意宇郡野白村友田大明神是也」
・出雲国風土記考証p46で「紅葉山文庫本、日御碕本、藤波本、植松本等には、城社とあって、野の字がない。国造本、風土記抄には野白社とある。これは今日ではもと何処にあった社をいったものかわからぬ。明治四十一年五月、今の八束郡乃木村の妙見社の位置に、諸社を合併して、野代神社と名づけたが、その合併せられた中の一つに宇賀神社といふのがあった。その社は今の野代神社より東北十町ばかりの宇賀山にあって、元禄四年の棟札には「野城神社」とある。これを明治二年に宇賀神社と改称したものである。その祭神は天照大神、大穴持命、事代主命である。~」
これは、松江市浜乃木町2丁目10-30「野代神社」合祀の「宇賀神社(野城神社)」に関する記述である。(縁起は社伝と多少異なる)
(宇賀山は現在の床机山のことかと思われるが不詳)
出雲風土記抄の友田大明神というのは友田山(現在の田和山)にあったとされる社で、現在は移転して松江市&ruby(ノシラ){乃白};町779「野白神社」となっている。
・校注出雲国風土記では「野城社」と記し、上の野城社(能義神社)と同じとしている。
・修訂出雲国風土記参究p144で「野城社は諸本単に城社とし、又野白社とされているが、この風土記の官社と延喜式の官社とを対照して見ると、この社はどうしても野城社でなければならない。そして、この野城社は、上述の延喜式にある野城神社と同社に坐す大穴持神社にあたり、能義神社と同名社であったわけである。」
---後藤は後に記される野代社を舳田大明神としており、岸埼の記述を勘違いしているようである。
加藤は野城社として能義神社と主張しているわけだが、同じであれば別記するわけがない。単なる思い込みでしかない。
記載の「城社」は岸埼の記す「野白社 友田大明神」が該当するのであろうと思われる。
松江市浜乃木の「野代神社」でもなく安来市の「能義神社」でもない。
---田和山は峠山の転じた呼び名と考えられ、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が近年多数発見されており、三重の環濠を有し1号墳からは直刀鉄剣が見つかるなどしている。

--久多美社…松江市東忌部町平口の[[「久多美神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%94%BA%E5%B9%B3%E5%8F%A3%E3%80%8C%E4%B9%85%E5%A4%9A%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--佐久多社…松江市宍道町上来待佐倉の[[「佐久多神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E4%B8%8A%E6%9D%A5%E5%BE%85551%E3%80%8C%E4%BD%90%E4%B9%85%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

--多乃毛社…安来市伯太町安田の[[「田面神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E4%BC%AF%E5%A4%AA%E7%94%BA%E5%AE%89%E7%94%B0520%E3%80%8C%E7%94%B0%E9%9D%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]

***&color(navy,){須多社   眞名井社   布辨社    斯保祢社}; [#d38b015f]

--眞名井社…松江市山代町の茶臼山西麓「真名井乃滝」傍にあった神社。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.433636/133.101264]]
今は「伊弉諾神社」から改称した[[「眞名井神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E7%94%BA84%E3%80%8C%E7%9C%9E%E5%90%8D%E4%BA%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]に合社されている。


***&color(navy,){意院之社  即原社    久來社    布吾祢社}; [#r0ccd5fa]

--意院之社…意陀支社であろう。
・細川家本k13・日御碕本k13、倉野本k13、で「意陀支社」
安来市飯生の[[「意多伎神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E9%A3%AF%E7%94%9F%E7%94%BA679%E3%80%8C%E6%84%8F%E5%A4%9A%E4%BC%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]とされる。
「意多伎神社」としているのは延喜式神名帳に記された社名からであろう。

***&color(navy,){寄道社   野代社    賣布社    狭井社}; [#h3750924]

--寄道社…完道社(宍道社)であろう。松江市宍道町白石の[[「石宮神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E7%99%BD%E7%9F%B3638%E3%80%8C%E7%9F%B3%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]
・細川家本k13・日御碕本k13・倉野本k13・紅葉山本k11・鶏頭院天忠本k12で「寄道社」
・上田秋成書入本k12で「寄道社」[寄]に[宍]を傍記
・出雲風土記抄1帖k35本文で「完道社」1帖k37解説で(完道社是亦同處白石本郷石宮大明神而乃有大穴持命追来猪犬之石像之社也)
・春満考k14では、「布吾祢社 今案寄ハ宍の誤り奈るへし延喜式に完道神社とあるを證とす」とある。
春満全集p439では、布吾祢社と寄道社は別記されており「寄道社 今案寄ハ宍の誤りなるへし。延喜式に完道神社と有るを證とす。」とある。上記の布吾祢社は誤写であろう。
・雲陽誌k69で「白石 大己貴命造たまふ猪の像二あり、~其形石となりて猪犬に異なる事無し、白石本江村に祭て石宮明神といふ、【風土記】に載る宍道社是なり、~」
・出雲国風土記考証p50で「風土記抄には、これは白石村石宮明神であつて、大穴持命を祀ると云つている。併し、現今の如く、犬像石を神躰として祀ることが、天平時代にもあつたならば、宍道郷の條の猪像石及び犬像石の記に、その事の書き方もあらう。然るに、それが神として祀られているらしい記もないから、石宮明神を宍道社とすることは信じがたい。今の宍道の町の氏神は、雲陽誌に祇園社とあるもので、風土記の宍道社と思はれない。佐々布の大森社が宍道社に當るとおもはれる。大森社はもと夫婦岩より西に當り、宍道川の西側の神籬坪といふ所にあつた。祭神は須佐之男命である。」と記している。天平時代に石を神として祀る事に疑問を呈し石宮神社である事を否定しているわけだが、飯石郡の飯石神社に関しては疑問を呈していない。自己矛盾である。
石を御神体としている出雲国風土記記載の神社は他にも幾つかあり、後藤の天平時代云々は根拠にならない。
又、宍道の氏神がどうとか地名縁起に何の関係もない。
雲陽誌で宍道社としているのは石宮明神の方であり、佐々布に大森明神を記しているが別記しており大森明神を宍道社とはしていない。宍道は大己貴神由来の地であり須佐之男命由来ではない。大森神社を宍道社とする根拠は全くない。
大森神社では今は主祭神を大穴牟遲命に変えている。雲陽誌p126では「素盞嗚尊をまつる」とある。
ちなみに後藤の記す「夫婦岩」というのは[[「女夫岩」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?-%E5%A5%B3%E5%A4%AB%E5%B2%A9]]の事であろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.395312/132.909014/]] 大森神社の元の社家宍道氏から土地の寄贈を受け、大森神社が管理している。山中の傾斜地にあり、一つの大岩が二つに割れたような形であり、猪岩とはとても見えない。明治期に社家であった宍道氏が大森神社の社格を得るために猪岩と主張したものであろう。
宍道氏は佐々木源氏の出自で土着して宍道氏を称した。元この地域の戦国領主であり島根では良くあることだが隠然とした力を持つ。
それ故大森神社が宍道社であると強弁すれば、表向き反対はしがたいという事情があったのであろう。
ついでに「式内社調査報告」では上記後藤の愚説を丸写ししている。
・宍道社を主張する神社に今ひとつ氷川神社がある。元は祇園社であったが明治に入り改称し、同じく祇園社から改称した三崎神社を合社。共に素盞嗚尊を祀っていた。三崎神社が祇園社と称する前には宍道社であったと主張した。これも根拠はない。
---祇園社から改称したのは明治政府の神仏分離政策によるものであろう。宍道社との主張は社格を得たいが為の行為であろう。
この主張をしたのは佐陀神社権神主宇藤綱安の子で氷川神社宮司大坪家に養子に入った大坪高津で、時代でもあろうがよほど社格にこだわりがあったのであろう。
ついでに記すと、「祇園社」からの改称では「八坂神社」が多い。「氷川神社」としたのは斐伊川の読みに氷川が通じるという大坪高津の主張であった。斐伊川は全くこの地を流れていない。

--野代社…
・出雲風土記抄-1帖-k36解説で「野代社同社者乃木村&ruby(アテヌキ){當努貴};大明神及福冨村大明神也而此記以乃木自福冨都曰能代予以野代川及蚊嶋等処仔細考之以分於此矣」
・出雲国風土記考証p50「野代の舳田大明神と云ふことである。猿田彦命と宇受賣命とを祀る、もと、此の社は、これよりも東方トモダ山にあつたのを、尼子氏の頃、今の社地に移し、その跡を城址としたと云ふ。」
・修訂出雲国風土記参究p147で「&ruby(ぬしろのやしろ){野代社};は延喜式に「野白神社」と見え、風土記抄には、「野白村友田大明神是なり」とあり、~」
○後にもう一社「野代社」が記されている。岸埼はそれぞれを「當努貴大明神」と「福冨村大明神」としている。この2社は明治に入り「野代社」として合社され現在の「野代神社」となっている。後藤が「城社」のところで記述しているのはこの「野代神社」のことである。加藤も後藤の誤解を引き継ぎ友田大明神としている。

--狭井社…
出雲風土記抄・雲陽誌ともに松江市宍道町白石の[[「佐爲神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E7%99%BD%E7%9F%B31464%E3%80%8C%E4%BD%90%E7%88%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]。


***&color(navy,){同狭井高社 牢流布社   伊布夜社   由宇社}; [#z7bfc2d5]

--狭井高社
細川家本k13・日御碕本k13・紅葉山本k11・倉野本k13で「狭井高社」
万葉緯本k17・万葉緯本NDLk16・出雲風土記抄-1帖-k35で「狭井高守社」
・松江市宍道町白石の[[「佐爲神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%AE%8D%E9%81%93%E7%94%BA%E7%99%BD%E7%9F%B31464%E3%80%8C%E4%BD%90%E7%88%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]境内の「佐為高守神社」

--牢流布社…宇流布社であろう。
・細川家本k13・日御碕本k13・倉野本k13・出雲風土記抄-1帖-k35本文・万葉緯本NDLk16で「宇流布社」


***&color(navy,){布自奈社  同布自奈社  野代社    佐久多社}; [#j8713d3b]

***&color(navy,){意院支社前社 田中社   詔門社}; [#r9e76738]
***&color(navy,){楯井社    遠玉社   石塚社    佐久佐社}; [#j7992d98]

--楯井社…安来市宇賀荘町の[[「嵩神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%AE%87%E8%B3%80%E8%8D%98%E7%94%BA473%E3%80%8C%E5%B5%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]
・延喜式神名帳註k164で、楯井神社の註に『出雲国風土記』意宇郡の楯縫郷天之石楯を引用している。
即ち、この神社は楯縫鄕の地名縁起に関わる神社であり、該当するのは「嵩神社」である。
通説では「熊野大社」境内の「伊邪那美神社」に合祀された「楯井神社」(祭神:大田命)としているようだがあり得ない。
偶々社名が同じだったに過ぎない。
---「嵩神社」は嵩山(岳山)に由来する社名であるが、「楯井社」というのは、この地に井戸があった事によるのか、あるいは「嵩神社」を奥宮とし、山麓の堤のあたりに別に神社があってそれを「楯井社」と呼んでいたものと考えられるが、今となっては不明。
尚「出雲風土記抄」では解説がない。

--佐久佐社…「六所神社」境内の「佐久佐神社」。

***&color(navy,){多加比社   山代社   詞屋社    同社 &size(9){以上廾八所置}; &size(8){但シ四十七社見ユル廾八トハ不審ナリ};}; [#r0c07592]

&color(darkgreen,){多加比社   山代社   詞屋社    同社 (以上二十八所置)(但し四十七社見ユル。二十八とは不審なり)};

***&color(navy,){在社祇宮   宇田比社  支布佐社   毛社乃社}; [#j01a675e]
***&color(navy,){郡富乃夜社  支布佐社  国原社    田村社}; [#rdc7b710]

--郡富乃夜社…松江市八雲町東岩坂の[[「星神天神宮(那冨乃夜神社)」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8B%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%94%BA%E6%9D%B1%E5%B2%A9%E5%9D%822193%E3%80%8C%E9%82%A3%E5%86%A8%E4%B9%83%E5%A4%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]


***&color(navy,){予穂社    同予穂社  伊布夜社   阿太加夜社}; [#u0d120f4]
***&color(navy,){須多下社   河原社   布字社    米郡為社}; [#s50f145b]
***&color(navy,){加和罗社   笠柄社   志多備社   食師 &size(9){以上十九所置在神祇官}; &size(8){但シ支布佐社ニ所見ル是ヲ合テ二十所アリ};}; [#f45e6adf]

&color(darkgreen,){加和羅社   笠柄社   志多備社   &ruby(ミケシ){食師}; (以上十九所に置在神祇官)(但し支布佐社に見る所、是を合せて二十所あり)};

--食師…「食師社」。安来市&ruby(イナリ){飯生};町679の[[「&ruby(オタキ){意多伎};神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E9%A3%AF%E7%94%9F%E7%94%BA679%E3%80%8C%E6%84%8F%E5%A4%9A%E4%BC%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]に合祀されている。

---ところで、『出雲国風土記』記載神社が、巡り順とする主張があるようだが、愚説。
例えば、意宇郡で「熊野大社」から何故始めているのか、続いて何故「夜麻佐社」「賣豆貴社」と続き、しばらくして又「夜麻佐社」なのか、少しく考えてみれば直ぐに解る。巡り順ならこういう並びになるはずがない。「A社とC社の途中にB社はあるはずである」などという見方は、各社の比定をぐちゃぐちゃにする愚かしい説である。あまりにくだらないので取り上げる気もしなかったが念のため。

***&color(navy,){[山]}; [#l79f51a5]

***&color(navy,){長江山 郡家東南五十里&size(9){有水精};}; [#yd366754]

&color(darkgreen,){長江山 郡家の東南五十里 (水精有り)};

--長江山…[[既述:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E6%84%8F%E5%AE%87%E9%83%A1#g9f16c37]]
--水精…水晶

***&color(navy,){暑垣山 郡家正東八十歩&size(9){有蜂}; &size(8){蜂欤トアリ};}; [#ob6a1712]

&color(darkgreen,){暑垣山 郡家の正に東八十歩 (蜂有り)(蜂欤とあり)};

--蜂…「烽」(トブヒ・ノロシ)であろう。
--正東八十歩…後記に「暑垣烽高字郡家正東廾里八十歩」とあるので書き落としであろう。→「正東二十里八十歩」
--暑垣山…&ruby(アツガキトブヒ){暑垣烽};と呼ばれる烽火台があった。通説では安来市田頼町の「車山(田頼山)」とされる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.401854/133.201911/]] が疑問。
---「蜂欤」は&ruby(ホウカ){烽欤};。「欤」は&ruby(アクビ){欠伸};の事であるから、烽火を間欠的にあげたことを指しているのであろうと思われる。
出雲国風土記考証ではこの部分について、『古冩本に蜂の字につくり、&ruby(ウハゞミカ){蟒歟};と傍書したもの、或は蜂蟒と書いたものがある。』と記している。「蟒」は(モウ・ボウ、うわばみ・おろち)「歟」は(ヨ、か・あくび)。「蜂蟒」も(うわばみ)の意。&ruby(ウワバミ){蟒蛇};とするのは、烽火の様態を指しているのかもしれない。
--前後するが、次に出てくる「高野山」が「星上山」や「京羅木山」ではなく「城山」であると考えると、「暑垣山」の正東二十里八十歩は、「城山」の正東十九里より更に東であるから、これは今の[[「清水山」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%96%B2%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%94%BA%E3%80%8C%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%B1%B1%E3%80%8D]](172m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.404128/133.283558/]]と考えられる。
烽は白村江の戦いの後、唐・新羅に備えて40里毎に備えられたもので、西から東への連絡網であった。
伯耆国の烽は壺瓶山(144m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#14/35.445009/133.419600/]] にあったといわれており、清水山から壺瓶山まで直線距離で14(㎞)、嵩山から壺瓶山まで直線距離で29(㎞)、嵩山から清水山まで直線距離で20(㎞)、という事を考慮すると、清水山を暑垣山と考えるのは概ね妥当であろう。
「烽」を上げるのは、緊急時の連絡手段であるから、それをあげる山は、周辺から見通せる山でなければならない。清水山は東西北に見晴らしが良くそれにふさわしい山であるが、通説の「車山(田頼山)」は西方則ち出雲国庁方向に山塊があり位置的にも距離的にもふさわしいとは云えない。
嵩山から壺瓶山まで東に烽をつなぐに際し、南東の山影になる田頼山で烽火を上げるわけがない。
「暑垣」という名称は能義平野から東方を見た時、清水山・岳山・鉢伏山・鷲頭山などの山塊が、生け垣のように見えることからの呼び名であったのであろう。

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(白井文庫k12)
https://fuushi.k-pj.info/jpgbIF/IFsirai/IFsirai-12.jpg
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高野山 郡家正東一十九里
熊野山 郡家正南一十八里 &size(9){有檜檀也所謂&br;熊野大神之社坐};
久多美山 郡家西南廾三里有社
王作山 郡家西南廾二里有社
押名樋野 郡家西北一百廾九歩高八十丈周六
里卅二歩 &size(9){東有松三&br;方並有茅};
凡諸山野所在草木麦門冬獨活石斛前胡高
良姜連翹黃精百部根貫衆白朮薯蕷苦参細
辛商陸木玄参五味子黃々葛根牡丹藍漆薇
藤李檎&size(9){字或&br;作梧};赤桐白桐楠椎&ruby(ツバキ){海榴};&size(9){字或&br;作椿};楊梅
-----
松栢&size(9){字或&br;作榧};蘗槻禽獸則鵰&ruby(ハヤブサ){晨風};&size(9){字或&br;作隼};山鶏鳩鶉
鶬&size(9){字或作&br;離黄};鵄鴞&size(9){作横致&br;功鳥也};熊狼猪鹿兎狐&ruby(ムサゝビ){飛鼯};&size(9){字或作&br;櫑作蝸-猧カ};
獼猴之族至繁多不可題之
[川]
伯太川源出仁多與意宇二郡境葛野山經母理
楯縫安来三郷入入海&size(9){有年魚&br;伊久比};山国川源出郡家東南卅八里枯見山北海入伯太川
飯梨河源有三&size(9){一水源出仁多大原意宇三郡堺田原 一水&br;源出祐見 一水源出仁多郡玉嶺山};
三水合北流入入海&size(9){有年魚&br;伊具比};筑湯川源出郡家正東
一十里一百歩萩山北流入入海&size(9){有年魚};
意宇川源出郡家正南一十八里熊野山川流入入
──────────

***&color(navy,){高野山 郡家正東一十九里}; [#w7866908]

&color(darkgreen,){高野山、郡家の正に東一十九里};
--高野山…
・出雲風土記抄1帖k40解説で「鈔曰高野山意宇郡大草郷岩坂村星上山也一十九里今三里六町~」
・出雲国風土記考証p65解説で「これは星上山であるから、正東一十九里とあれども、東南九里とあるべきものと思ふ。」
星上山(458m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.388455/133.134727/]]
・修訂出雲国風土記参究p156参究で「路程は一〇・一五六粁。風土記抄に星上山とされているが、それでは近すぎる。郡家から正東に進み、今の意東川、当時の筑陽川下流から川に沿って山麓に至る距離とすれば、京羅木山(標高四七三米)が最も適合する。」
今では加藤の説が通説として東出雲町と広瀬町の境にある京羅木山(473m)とされる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.387091/133.164532/]]
講談社学術文庫出雲国風土記p74注も同様に京羅木山としている。
が、星上山にせよ京羅木山にせよ郡家の正東に当たらない。そもそも星上山にせよ京羅木山にせよ、意宇平野から望める山であり、方位や距離を誤るはずがない。
次の「熊野山」記述の方角と距離から勘案して、安来町切川町と赤崎町の堺にある[[&ruby(ジョウヤマ){城山};(87.9m):https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%96%B2%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%88%87%E5%B7%9D%E7%94%BA%E3%80%8C%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E3%80%8D]]であろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.410634/133.239441/]]
中世尼子十砦の一つとして赤崎山城が築かれ解らなくなったのであろう。北麓[[「加茂神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E2%97%8B%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E5%AE%89%E6%9D%A5%E5%B8%82%E5%AE%89%E6%9D%A5%E7%94%BA541%E3%80%8C%E5%8A%A0%E8%8C%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]]東脇から登山道がある。
山頂は開かれ休憩所(東屋)がおかれている。今は訪れる人も稀なのか草木が茂っているが、かつては展望の利く山であったと思われる。
出雲国庁から米子に向かう際、「十神山」と並んで目印となる山である。
後に記される河川記述において、伯太川・山国川(吉田川)・飯梨川に挟まれる交通の要地であったことから記されたものと考えられる。
[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#13/35.384852/133.153954/]]で、このスケールで見ると位置関係が解りやすい。
高野山正東19里、熊野山(天狗山)西南18里。
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/ou/maptakano.jpg


***&color(navy,){熊野山 郡家正南一十八里 &size(9){有檜檀也所謂熊野大神之社坐};}; [#saec7dd8]

&color(darkgreen,){熊野山、郡家の正に南一十八里(&ruby(ヒノキ){檜};・&ruby(マユミ){檀};有る也。&ruby(イワユル){所謂};熊野大神の社坐す)};

--熊野山…現在の天狗山[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.339512/133.083036/]]標高640(m)

***&color(navy,){久多美山 郡家西南廾三里有社}; [#p29cdfdf]

&color(darkgreen,){久多美山、郡家の西南二十三里。社有り。};

--久多美山…松江市東忌部町[[「久多美神社」:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=%E2%97%8E%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%94%BA%E5%B9%B3%E5%8F%A3%E3%80%8C%E4%B9%85%E5%A4%9A%E7%BE%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%8D]] [[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.409147/133.041794/]]の後背にある。黒目山とも云う。元は山頂[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.405579/133.045185/]]に久多美神社があったが、中世久多美山城築城の際、山麓に移された。更に明治期に忌部神社に合祀されたが、大正期に復興された。

***&color(navy,){王作山 郡家西南廾二里有社}; [#b6ec3bb9]

&color(darkgreen,){王作山、郡家の西南二十二里。社有り};

--王作山…玉作山、玉造温泉東方にある花仙山[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.422123/133.022912/]]。&ruby(ヘキギョク){碧玉};(&ruby(アオメノウ){青瑪瑙};)を産出。八尺瓊の勾玉はこれで造られたとも云う。
山中には複数箇所の採掘坑があるという。西麓の一箇所が公開されている。[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.421661/133.011299/]]


--有社…ここに云う社は山中の社であるから、現在の玉作湯神社とは異なる。但し、既に合祀されているのかも知れない。

***&color(navy,){押名樋野 郡家西北一百廾九歩高八十丈周六里卅二歩 &size(9){東有松三&br;方並有茅};}; [#l379da47]

&color(darkgreen,){押名樋野、郡家の西北一百二十九歩。高さ八十丈。&ruby(メグ){周};り六里三十二歩。 (東に松あり。三方並に茅有り)};

--押名樋野…松江市山代町の茶臼山。
・上田秋成書入本k8で「押名樋野郡家西北一百廾九歩高八十丈周六里廾二歩 &size(9){東有松三方並有弟};」赤字で「弟」に「茅イ」と傍記
・校注出雲国風土記p15では「&ruby(かむなびぬ){神名樋野};」としている。


***&color(navy,){凡諸山野所在草木麦門冬獨活石斛前胡高良姜連翹黃精百部根貫衆白朮薯蕷&br;苦参細辛商陸木玄参五味子黃々葛根牡丹藍漆薇藤李檎&size(9){字或作梧};赤桐白桐&br;楠椎海榴&size(9){字或作椿};楊梅松栢&size(9){字或作榧};蘗槻}; [#fd0d7c2a]

&color(darkgreen,){&ruby(オヨ){凡};そ&ruby(モロモロ){諸};の山野に在る所の草木は、&ruby(バクモントウ){麦門冬};・&ruby(ドッカツ){獨活};・&ruby(セキコク){石斛};・&ruby(ゼンコ){前胡};・&ruby(コウラキョウ){高良姜};・&ruby(レンギョウ){連翹};・&ruby(オオエミ){黃精};・&ruby(ビャクブコン){百部根};・&ruby(カンジュウ){貫衆};・&ruby(ビャクジュツ){白朮};・&ruby(ショヨ){薯蕷};&br;・&ruby(クジン){苦参};・&ruby(サイシン){細辛};・&ruby(ショウリクボク){商陸木};・&ruby(ゲンジン){玄参};・&ruby(ゴミシ){五味子};・&ruby(オウゴン){黃々};・&ruby(カッコン){葛根};・&ruby(ボタン){牡丹};・&ruby(アイ){藍};・&ruby(ウルシ){漆};・&ruby(ワラビ){薇};・藤・&ruby(スモモ){李};・&ruby(ゴ){檎};(字を或いは梧に作る)・赤桐・白桐&br;・楠・椎・&ruby(ツバキ){海榴};(字を或いは椿に作る)・&ruby(ヨウバイ){楊梅};・松・&ruby(カエ){栢};(字を或いは榧に作る)・&ruby(ハク){蘗};・&ruby(ツキ){槻};};

---区切り無く羅列されていて読みにくい。以下個別に記す。

--麦門冬(バクモントウ)…蛇ノ髭(ジャノヒゲ)・藪蘭(ヤブラン)。古名は山菅(ヤマスゲ)。根を煎じて生薬とする。麦門冬湯として知られ咳に効く。
--獨活(ドッカツ)…ウドの生薬名。湿布薬になる。
--石斛(セキコク)…少彦薬根(スクナヒコナノクスネ)・岩薬(イワグスリ)という古名がある。健胃薬・強壮薬。
--前胡(ゼンコ)…野芹(ノゼリ)。解熱・去痰・鎮咳。
--高良姜(コウラキョウ)…花茗荷(ハナミョウガ)の事。健胃・整腸・解熱薬。
--連翹(レンギョウ)…古名は(鼬草イタチグサ)。花の付く枝がイタチのように立ち姿になることからの呼び名という。解熱・消炎・腫物に効果。
但し本来の連翹は(巴草トモエソウ:大連翹)もしくは(弟切草オトギリソウ:小連翹)。
--黃精(オオエミ)…鳴子百合(ナルコユリ)の古名。滋養・強壮薬
--百部根(ビャクブコン)…古名はホドズラ。その根を漢方薬とした。殺菌。
--貫衆(カンジュウ)…銭巻(ゼンマイ)の生薬名。虫下し。
--白朮(ビャクジュツ)…朮(オケラ)の生薬名。健胃・健脾・強壮。
--薯蕷(ショヨ)…山之芋(ヤマノイモ)の別名。強壮・疲労回復。

--苦参(クジン)…眩草(クララグサ)の根の生薬名。クラクラするほど苦い事からクララと呼ばれる。健胃・消炎・皮膚病など。
--細辛(サイシン)…薄葉細辛(ウスバサイシン)・韮根草(ミラノネグサ)。鎮咳・鎮痛薬。
--商陸木(ショウリクボク)…古名で(イオスキ)とも読む。キク科ヤマボクチ属の菊葉山火口(キクバヤマボクチ。通称山牛蒡ヤマゴボウ)。根が利尿剤となる。火口は葉の裏に毛があり火種として使われたことによる名称。
ヤマゴボウ科の山牛蒡ではない。
校注出雲国風土記では、「商陸・高木」と分けて、高木に(サワソラシ・カサモチ)を充てている。カサモチは「和藁本」(ワコウボン)と記され「藁本」とも記すようだが、「高木」は不明。
--玄参(ゲンジン)…胡麻葉草(ゴマノハグサ)の根を乾燥したもの。解熱・解毒。
--五味子(ゴミシ)…朝鮮五味子(チョウセンゴミシ)。果実を鎮咳、強壮薬とする。
校注出雲国風土記では(サネカズラ)としているが五味子の代用品で別種。
--黃(オウゴン)…正しくは黄苓、黄金花(コガネバナ)コガネヤナギとも云う。消炎・解熱・腹痛薬。校注出雲国風土記では(ヒヒラギ)と読んでいるが不明。ヒヒラギは「柊」。
--葛根(カッコン)…葛の根(クズノネ)。葛根湯の主成分として有名。滋養・発汗・風邪
--牡丹(ボタン)…古名は深見草(フカミグサ)。根の皮を牡丹皮(ボタンピ)と呼び生薬とする。消炎・鎮痛・止血・通経・通便。
--藍(アイ)・漆(ウルシ)…染料の藍と漆器に用いる漆。
校注出雲国風土記では「藍漆」を分けずに(ヤマアイ)と読んで、タデ科のアイの事としているが、「藍漆」では(ヤマアサ)即ち反魂草(ハンゴンソウ)の事を指し、違和感がある。
--檎(ゴ)…「檎」は林檎(リンゴ)の事。林梧とも書く。又、梧桐は青桐を云う。後に赤桐、白桐が続くので、青桐を指しているのかも知れない。
「校注出雲国風土記では「杉」とし「字或作椙」としている。

--海榴(ツバキ)…海柘榴(ウミザクロ)、椿の異名。椿の実が柘榴の実に似ている事によると言う。海を付けたのは海辺の山中に多くある椿を指したのであろうと思われる。
--楊梅(ヨウバイ)…山桃(ヤマモモ)の事
--栢(カエ)…榧(カヤ)の古名。
--蘗(ハク)…黄檗(オウバク)、黄膚(キハダ)の事。ミカン科の常緑高木で、樹皮を剥くと黄色い。この黄色い部分が生薬となる。抗菌・健胃整腸薬。又染料にも用いる。禅宗の黄檗山はこれに由来する。
--槻(ツキ)…欅(ケヤキ)の古名。

***&color(navy,){禽獸則鵰&ruby(ハヤブサ){晨風};&size(9){字或&br;作隼};山鶏鳩鶉鶬&size(9){字或作&br;離黄};鵄鴞&size(9){作横致&br;功鳥也};熊狼猪鹿兎狐&ruby(ムサゝビ){飛鼯};&size(9){字或作&br;櫑作蝸-猧カ};獼猴之族至繁多不可題之}; [#u7ca12d3]

&color(darkgreen,){禽獸には則ち、&ruby(ワシ){鵰};・&ruby(ハヤブサ){晨風};(字を或いは隼に作る)・&ruby(ヤマドリ){山鶏};・鳩・&ruby(ウズラ){鶉};・鶬(字を或いは離黄に作る)・&ruby(トビ){鵄};・&ruby(フクロウ){鴞};(作横致&ruby(コウチョウ){功鳥};也)・熊・狼・猪・鹿・兎・狐・&ruby(ムササビ){飛鼯};(字を或いは櫑に作り、蝸に作る-猧か)・&ruby(ビコウ){獼猴};の族。至って&ruby(サワ){繁多};にして&ruby(カカ){題};げるに不可};

--晨風…「字或作隼」とあり(ハヤブサ)と傍記してあるのでハヤブサとするが、一般には「晨風」は(シンプウ)であり、「晨」は夜明けを指し、晨風は夜明け頃に吹く風、「朝風」のこと。隼を晨風(朝風)に充てたのは、山から谷に吹き下ろす風でもあり、夕風より速いからであろう。
--鶬…真鶴(マナヅル)。校注出雲国風土記では(ヒバリ)と読んでいる。
「離黄」は説文に倉庚(ソウコウ)の別名とある。この倉庚は鶯(ウグイス)を指す。
--鵄(トビ)・鴞(フクロウ)…校注出雲国風土記では、「鴟鴞」と記し(ズク)と読み、ミミズクの事であるとしている。
が、「鴟鴞(シキョウ)」はフクロウであり、ミミズクは「鴟鵂(シキュウ)」である。
--作横致功鳥…不明な注記で、色々解釈されている。「鵄」を「鴟」としているものがあり、「鴟」の場合に、「横致」は偏が致→至ということなのかも知れない。標注古風土記p83によれば、千家俊信は「作横切鳥」と変えたらしい。
「功鳥」はイサオ鳥=勇ましい鳥で猛禽類であることを指している。これを「悪鳥」「凶鳥」と記しているものもある。悪鳥・狂鳥はひどいと思うが・・・。
--飛鼯(ムササビ)…平安中期以前にはムササビとモモンガを共にムササビと呼び区別していなかったようである。
--櫑(ライ)…酒樽。「鼺」(ルイ)がムササビであるから、誤記もしくは略記であろう。
--蝸・猧…読みは共に(カ)。蝸は(カタツムリ)。猧は狆(チン)。出雲風土記抄第1帖p39では『字或作[獣偏に畾]作蝠』とあるが解説はない。「蝠」は(マムシ)。
この件不明。
--獼猴(ビコウ)…大猿
---この辺りの読みの解説は[[『和名類聚抄』]]を参考にしている場合が多いようである。出雲国風土記から200年後に作られたものであり、書写の過程で誤記改竄も多々あるようであり、気を付けないと本末転倒となる。
即ち、出雲国風土記から和名類聚抄に収録されたものを、和名類聚抄に斯くあるから、出雲国風土記の記述は斯くの如しと云うような倒錯。


***&color(navy,){[川]}; [#s199c9ff]
***&color(navy,){伯太川源出仁多與意宇二郡境葛野山經母理楯縫安来三郷入入海&size(9){有年魚&br;伊久比};}; [#d189e230]

&color(darkgreen,){伯太川、源は仁多と意宇、二郡の境の葛野山より出て、母理・楯縫・安来の三郷を経て、入海に入る。(&ruby(アユノウヲ){年魚}; 伊久比あり)};
--年魚…(アユノウヲ)とルビがある。鮎。1年で一生を終えることから「年魚」と記される。
秋口に下流域で産卵し、稚魚は海で育ち、暖かくなると元の川の中上流域に遡上してくる。
成魚は岩に付いた苔を食べよい香りを出すので「香魚」とも記す。
--伊久比(イクヒ)…(ウグイ)。方言ではハヤ。泳ぎが早いことによるという。
--入海…現在の中海。鶏頭院天忠校正本では「大海」としている。出雲風土記抄では「于海」と記している。
--于海…出雲風土記抄で頻繁に用いられている表現で。于は助詞「に」。「于海」で「海に」。宍道湖・中海共に用いている。

***&color(navy,){山国川源出郡家東南卅八里枯見山北海入伯太川}; [#qd0a387a]

&color(darkgreen,){山国川、&ruby(ミナモト){源};は郡家の東南三十八里の&ruby(カレミ){枯見};山より出て、伯太川により北の海に入る};

--山国川…現在の吉田川
--枯見山…宇波山とされるのだが、宇波山が解らない。源流域の地形から現「羽根ヶ谷山」若しくはやや西方のピークの事と思われる。「宇波」は元字「雲南」ともいわれる。
・出雲国風土記考証p77で「吉田より流れ出る吉田川である。枯見山は今の大塚村と井尻村と布部村との境にある宇波山であらう。この川今は切川といふ地を廻りたる後に伯太川に近く並びて海に入れども、古は北に流れ、直ちに伯太川に入つたものである。枯見山を紅葉山文庫本には拈見山と書いてある。」
後藤の言う各村名は明治22年町村制の実施による町村名であろう。
・大塚村…大塚村・鳥木村・上吉田村・下吉田村(→現安来市に合併)
・井尻村…井尻町・市中屋村・高江寸次村・須山福富村、日次村・横屋村・峠之内村(→現伯太町に合併)
・布部村…布部村・宇波村・菅原村(→現伯太町に合併)

--枯見山…宇波山とされるのだが、宇波山が解らない。宇波神社のある広瀬町宇波には吉田川は通じていない。
源流域の地形から現「羽根ヶ谷山」(360.9m)[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.332177/133.228798/]]若しくはやや西方のピーク(382m)の事と思われる。このピークを含む山塊を宇波山と呼んでいたものかと思われる。「宇波」は元字「雲南」ともいわれる。
山名については古代において、現代のように山頂部中心に呼ぶのではなく山体を総して呼んでいたように思われる。
--北海入伯太川…他書では「北流入伯太川」としている。が、安易に変えるべきではないので上記の読みとした。
上田秋成書入本では「北海入伯太川」として、「海」の横に赤字で「流」と注記している。
現在の吉田川は河川工事により西行し直接中海に注いでいるが、既に記したようにかつては伯太川に流れていた。
---出雲国風土記には注釈書等が安易に原文を変えすぎていると云う批判がある。1300年前の作成であり原本が残っておらず、書写による異同が多い為致し方ない面もある。良くあるのが古写本複数を比較勘案したという説明だが、底本原文と変更の根拠ぐらいは示すべきであろう。

***&color(navy,){飯梨河源有三&size(9){一水源出仁多大原意宇三郡堺田原 一水源出祐見 一水源出仁多郡玉嶺山};三水合北流入入海&size(9){有年魚伊具比};}; [#g6d61255]

&color(darkgreen,){飯梨河、&ruby(ミナモト){源};三つ有り。(一水の源は仁多・大原・意宇・三郡の堺、田原より出る。 一水の源は祐見より出る。 一水の源は仁多郡玉嶺山より出る。)三水合いて北に流れ入海に入る。(年魚・伊具比有り)};

--一水(イッスイ)…校注出雲国風土記では(ヒトスジ)と読んでいる。
--田原…支流の山佐川源流域。三郡山(サンゴオリヤマ)というのがある。田原山という説もあるが不明。
--祐見…枯見であろう。支流の宇波川・水田原川源流域。出雲国風土記鈔第1帖p41には『枯見者能義郡の宇浪山の名也』とある。
--玉嶺山…現玉峰山。支流の布部川・東比田川源流域。布部川は玉峰山を源流域としているが、東比田川は猿隠山方面を源流域としている。
---飯梨川の記述部分で3水源を個別の山に特定しようとする解釈があるが、河川の水源を一つの山に絞るのは無理がある。

***&color(navy,){筑湯川源出郡家正東一十里一百歩萩山北流入入海&size(9){有年魚};}; [#kba0ec9f]

&color(darkgreen,){筑湯川、源は郡家の正に東一十里一百歩萩山より出て北に流れ入海に入る。(年魚有り)};

--筑湯川…現在の意東川。上田秋成書入本では「筑湯川」、出雲風土記抄では「筑陽川(チクヨウ・チクヤの両読みが記載されている)・校注出雲国風土記・標注出雲国風土記では「筑陽川」
東出雲町に筑陽神社[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.437150/133.166002/]]というのがあり、元社名は出雲国風土記の「調屋社」とし、河川氾濫により度々社地を変えているが意東川辺にあった事もあるという。筑陽社というのは延喜式神名帳によるようである。

--萩山…上田秋成書入本では「茯山」。校注出雲国風土記では「荻山」(星上山としている)。
標注出雲国風土記では「荻山」(京羅綺山としている)。
出雲風土記抄第1帖p41では「荻山」とし次の解説がある。
『鈔曰筑陽川者意宇郡筑陽郷餘戸里伊東村之川也荻山者奥伊東之山名也』
雲陽誌では波入川(筑陽川)の解説で『荻山は奥意東の山をいふ、星上山境良来山の麓より流れ出て下意東の海中に入』と記している。これからすると、荻山は星上山と京羅木山の間にある標高369(m) の山であろう。[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.389092/133.151670/]]

***&color(navy,){意宇川源出郡家正南一十八里熊野山川流入入海&size(9){有年魚&br;伊具比}; }; [#i464edfa]

&color(darkgreen,){意宇川、源は郡家の正に南一十八里の熊野山より出て、川流れて入海に入る。(年魚、伊具比有り)};

--上田秋成書入本では14コマ、『熊野山川流入〃海」とし、「川」の横に赤字で「北&size(9){乎};』と注記している。
校注出雲国風土記ではp112『意宇川、源出郡家正南一十八里熊野山北流、東折流入〃海&size(9){有年魚&br;伊具比};』としている。
--出雲風土記抄では第1帖p41『意宇川源出郡家正南一十八里熊野山北流東折流入于海&size(9){年魚伊&br;具比};』としており、 
解説で『俗言或&ruby(アタカエ){出雲};或大草或大庭川也』つまり、出雲川・大草川・大庭川、等と呼んでいたらしい。
----
(白井文庫k13)
https://fuushi.k-pj.info/jpgb/izumos/ifs13.jpg
──────────
海&size(9){有年魚&br;伊具比}; 野代川源出郡家正南一十八里須我山北
流入入海 玉作川源出郡家正西一十九里志山北流
入入海&size(9){有年&br;魚};來得川源出郡家正西廾八里和奈佐山
西流至山田村更折北流入入海&size(9){有年&br;魚};完道川源出
郡家正西卅八里幡屋山北海流入海&size(9){無魚};
[池]
津間抜池周二里卅歩&size(9){有鳥鴨&br;[魚斤]蔘}; 眞名猪池周一里北入
海門江濱&size(9){伯耆與出雲二&br;国堺自東行西}; 粟鳥&size(9){島ノ&br;字ヵ}; &size(9){有椎松多年木&br;宇竹眞島等葛}; 砥神嶋周三里
一百八十歩高六十丈&size(9){有椎松莘薺-茸ヵ頭蒿都&br;波師太等草木也}; 加茂嶋&size(9){旣礒};
羽嶋&size(9){有[木番]比佐木多&br;年木蕨薺頭葛}; 鹽楯嶋&size(9){有蓼螺&br;子永慕}; 野代海中蚊嶋周六
十歩中央温土四方並磯&size(9){中央有毛掬許木一許茸&br;日磯有蟻有螺子有海松};自茲
-----
以西濱或峻堀或平土並是通道之所經也
道通国東堺手間剗卅一里一百八十歩通大原郡堺
林垣峯卅二里二百歩出雲郡堺佐雜埼卅二里
卅歩通嶋根郡堺朝酌渡四里二百六十歩前件
一郡 入海之南此則国廊也
  郡主司主帳&size(9){无位海臣无位出雲臣};
  少領従七位上勲業出雲
  主政外少初位上勳業林臣
  槪主政无位出雲臣

島根郡
──────────
***&color(navy,){野代川源出郡家正南一十八里須我山北流入入海}; [#b16c1e40]

&color(darkgreen,){野代川、源は郡家の正に南一十八里須我山より出て、北に流れ入海に入る。};

--野代川…忌部川(野白川)
--須我山…現在の八雲山とされるが、実際には「八雲山」424.1(m) [[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.364643/133.049927/]]の北の峰現在の「空山」410.6(m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.381405/133.050056/]] の西山麓が水源域になっている。両方合わせて須我山と呼んでいたのかもしれない。
八雲山の東麓に熊野大社(松江市八雲町熊野2451)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.374197/133.070998/]]、西麓に須我神社(雲南市大東町須賀260)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.354074/133.031902/]]がある。
--正南…他書では西南という記述が見られるが、郡家と須我山の位置関係は西南と云うほど西によってはいないのでそのままにしておく。
--入海…野代川は宍道湖に注いでいるから、この「入海」は現在の宍道湖を指す。この事から「入海」と書かれた場合、中海・宍道湖を区別していなかったことを意味する。つまり、入海と云うのは固有名詞ではなく一般名詞ということになる。汽水であるから入り込んだ海と云う認識だったのであろう。

***&color(navy,){玉作川源出郡家正西一十九里志山北流入入海&size(9){有年魚};}; [#rfa0296c]

&color(darkgreen,){玉作川、源は郡家の正に西一十九里志山より出て、北に流れ入海に入る。(年魚有り)};

--玉作川…現在の玉湯川
--志山…出雲国風土記考証p79に『玉作川の源は大谷の奥であって、大谷と海潮村の山王寺との堺の葦山である。古寫本にいづれも志山とあるは、阿志山の阿が脱落したものかも知れぬ。』とある。
葦山が既に良く解らないのだが、現在の鍋石山(469m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.364923/133.002934/]]の東北方向ピーク(473m)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.368150/133.008722/]]であろうと思われる。(城床集会所南方・大東クレー射撃場北方)
---一部に「拝志山」としている件について、標註古風土記p89に「拝の字は内山眞龍の風土記解が挿入したもので、千家俊信の訂正風土記が、これに従ったのであるが、拝志山といふ山はない」とある。
眞龍・俊信による原文変更は多々見られるので注意が必要。

***&color(navy,){來得川源出郡家正西廾八里和奈佐山西流至山田村更折北流入入海&size(9){有年魚};}; [#tbd93957]

&color(darkgreen,){來得川、源は郡家の正に西二十八里和奈佐山より出て、西に流れ山田村に至る。更に北に折れて流れ、入海に入る。(年魚有り)};

--來得川…来待川。[得」は[待]の誤記であろう。
・上田秋成書入本14コマでは「來得川」の「得」の横に赤字で「待」と記している。
・出雲風土記抄1帖k42では「來待川」としている。

--和奈佐山…
・出雲国風土記考証p71で「和名佐山とは、&ruby(おほだに){大谷};と&ruby(わなさ){和名佐};と、&ruby(はたひよどり){畑鵯};との堺にある山をいったものであろう。」とある。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.371677/132.991176/]]
・修訂出雲国風土記参究ではp170〔参究〕で「和名佐山は八束郡宍道町和名佐北方にある山(標高二八一.九米)であろう」とある。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.387213/132.978945/]]
○後藤と加藤の見解は別れているが共に間違っている。来待川の水源を辿ると、[[剣神社:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.379323/132.964504/]]の辺りで二流に分かれているが共に[[標高251(m) の山:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.374949/132.971885/]]を水源としているから、これが風土記に云う和奈佐山である。
近くに「和名佐神社」(松江市宍道町上来待)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.376506/132.983065/]]があるが、峠の先にあるため来待川の水源にはなっていない。
後藤も加藤もこの辺りを歩きもせず、「和奈佐神社」の位置から推測したのであろう。

--山田村…現在の菅原地区にあたる。

***&color(navy,){完道川源出郡家正西卅八里幡屋山北海流入海&size(9){無魚};}; [#ece1688e]

「北海流入海」を「北流入入海」に修正

&color(darkgreen,){完道川、源は郡家の正に西三十八里幡屋山より出て、北に流れ、入海に入る。(魚無し)};

--北海流入海…「北流入入海」であろう。
上田秋成書入本14コマには、「北海」の「海」に「衍字」と赤書きしている。
出雲風土記抄第1帖p42では「北流入于海」
--完道川…宍道川、&ruby(サソウ){佐々布};川
--幡屋山…大東町幡屋の北方にある山。馬鞍山(丸倉山)(371.8m)とされるが少々疑問が残る。[[地理院地図:https://maps.gsi.go.jp/#15/35.375247/132.947981/]]。
--無魚…鮎が居ないと云う意味であろうか。魚が全く居ないことはないだろうから不明。
[[生き物図鑑/佐々布川:http://naturahuman-stud.org/%E7%94%9F%E3%81%8D%E7%89%A9%E5%9B%B3%E9%91%91/%E4%BD%90%E3%80%85%E5%B8%83%E5%B7%9D/]]では、鮎は居ないが他の魚は居る。
上流を金山川という事から、何らかの鉱物の影響で鮎が育たない川なのかも知れない。
或いは土石流など自然災害の発生で苔が失われ鮎が居なくなったのか。

***&color(navy,){[池]}; [#c538a571]

***&color(navy,){津間抜池周二里卅歩&size(9){有鳥鴨[魚斤]蔘};}; [#w75625bf]

&color(darkgreen,){&ruby(ツマヌキ){津間抜};池、&ruby(メグ){周};り二里三十歩(鳥鴨[魚斤]蔘有り)};

--津間抜池…松江市乃木町にかつてあったという池。
出雲国風土記考証に次のように記されている『乃木の今の善光寺から東南へ直線に五町半にあたりて、長さ百六十間ばかりの道路が東西に亘る。之を大桁といふ。この大桁を北の境としてその南を字ツバといふ。これが津間抜池の跡であらう』
現在の松江総合運動公園の辺りか。

--鳥鴨[魚斤]蔘…上田秋成書入本では「鳥」に「鳥疑&ruby(ケリ){鳧};欤」、「[魚斤]」には「鮒&size(9){カ};」と赤字で注記している。
出雲風土記抄では「鳧鴨[魚斤]蔘」。
出雲国風土記考証には『鳧鴨芹菜は國造本に據る。他の古寫本では鳧鴨[魚斤]蔘に作る。』とある。
校注出雲国風土記では「鳬鴨鮒蓼」としており、鳬に(たかべ)の読みを振っている。鳬は鳧の異体字。(たかべ)は小鴨の古名であり、漢字では「鸍」である。
---上記より、「鳥」は「&ruby(ケリ){鳧};」、と考えて良さそうである。[魚斤]については「&ruby(フナ){鮒};」の誤記と思われるが保留。
尚、近年宍道湖周辺ではタゲリは確認されているが、ケリは確認されていないようである。

***&color(navy,){眞名猪池周一里北入海}; [#y30b1390]

&color(darkgreen,){&ruby(マナイノイケ){眞名猪池};、周り一里。北は入海};

--眞名猪池…出雲風土記抄に『在于意宇郡山代郷矢田村』とある。これだけでははっきりしないのだが、現在の八幡溜池の事かと思われる。少し東方の蟹穴池という説もある。矢田町に間内と云う地名が残っていることから、間内の池であろうという説もある。間内の池がどこにあたるかは不詳。

***&color(navy,){門江濱&size(9){伯耆與出雲二&br;国堺自東行西};}; [#gce775df]

&color(darkgreen,){&ruby(カドエノハマ){門江濱};(伯耆と出雲二国の堺。東より西に行く。)};

--門江濱…安来市の&ruby(キサ){吉佐};と&ruby(カドウ){門生};の間にあった浜辺。現在は埋め立てにより浜辺の風情はない。

***&color(navy,){(子嶋&size(9){既磯};)}; [#fe9240d4]
ここに欠文有り、出雲風土記抄から補う

&color(darkgreen,){(子嶋、(既に磯))};

--子嶋…校注出雲国風土記では安来市島田町沖の松島としているが不明

***&color(navy,){粟鳥&size(9){島ノ字ヵ}; &size(9){有椎松多年木宇竹眞島等葛};}; [#n69659a8]

&color(darkgreen,){粟鳥、(島ノ字ヵ)(椎・松・多年木・宇竹・眞島等、葛有り)};

--粟鳥…粟島の誤記。安来市対岸の、米子市粟島。今は弓ヶ浜の小山になっているが江戸時代中期までは島であった。粟島神社があり少彦名命を祀る。かつては出雲国の領域であった。
--多年木(アワキ)…モチの木・橿木(カシノキ)・青木の総称。
--宇竹(オオタケ)…ハチクの古名。半竹・淡竹。
--眞島…眞前の誤記か?。柾木(マサキ)。
---この部分写本で異同がある。
--出雲風土記抄『有椎松多年木宇竹真嶋木葛』
上田秋成書入本『有椎松多年木宇竹真鳥木葛』「鳥」の横に「嶋」と赤字
鶏頭院天忠校正本『有椎松多年木宇竹眞嶋等葛』
校注出雲国風土記『有椎松多年木宇竹真前等草木』

***&color(navy,){砥神嶋周三里一百八十歩高六十丈&size(9){有椎松莘薺-茸ヵ頭蒿都波師太等草木也};}; [#wcd44488]

&color(darkgreen,){砥神嶋、周り三里一百八十歩高さ六十丈。(椎・松・莘・薺-茸ヵ頭蒿・都波・師太・等草木有る也)};

--砥神嶋…十神島。安来市安来町の十神山。かつては島であった。
--薺(ナズナ)…単漢字ではナズナの事だが、次のようにオハギと読む。
--薺頭蒿(オハギ)…嫁菜(ヨメナ)の古名。(茸&size(9){カ};とあるのは不要)
--都波(ツワ)…ツワブキ
--師太(シダ)…ウラジロの別名

***&color(navy,){加茂嶋&size(9){旣礒};}; [#weccbba0]

&color(darkgreen,){加茂嶋(旣に礒)};

--加茂島…安来町の亀島。

***&color(navy,){羽嶋&size(9){有[木番]比佐木多年木蕨薺頭葛};}; [#oa0b2b40]

&color(darkgreen,){羽嶋、([木番]。比佐木・&ruby(アワキ){多年木};・&ruby(オハギ){蕨薺頭};・葛有り)};

--羽嶋…安来市&ruby(ハシマ){飯島};、羽島神社(元の名は&ruby(ハシマ){飯島};神社)のある権現山という。
--[木番]…椿であろう
--比佐木(ヒサギ)…久木・楸。赤芽柏(アカメガシワ)の古名。校注出雲国風土記では(キササゲ)としているがキササゲは「木大角豆」。

***&color(navy,){鹽楯嶋&size(9){有蓼螺子永慕};}; [#k1a62968]

&color(darkgreen,){&ruby(シオタテ){鹽楯};嶋、(&ruby(タデニシ){蓼螺子};永慕有り)};

--鹽楯嶋…塩楯島。
・細川家本k16・日御碕本k16で「塩栯嶋」[栯](ウ・イク・ユウ)
・倉野本k16で「塩栯嶋」[栯]に「楯」を傍記。
出雲国風土記考証p82解説で「馬潟の瀬戸にある。&ruby(てんまのてんしん){手間天神};の島である。」とある。松江市馬潟町手間の、宍道湖と中海を結ぶ大橋川下流の川の中にある小島を塩楯島という。島には「手間天神社」という社があり「少名毘古那神」をまつっている。
少名毘古那神がこの地に降臨した際海水が固まり島になったという。
「手間」は少那毘古那神が御祖神産巣日神(古事記)の手の間から漏れたということに因む名付けであり、年4回の祭禮の際許可を得た者だけが上陸参拝出来るという。
(「天神」はテンシンであり菅原道真をまつる「天神社」と区別するためテンジンとは読まない。)
現社殿は初代松江藩主松平直政により建造された。
島は玄武岩からなり宍道湖と中海の分水界になっているという。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.449361/133.110502/]]
---[栯]は[㮋]の異体字。[郁]は(美しい様子)を意味するから[㮋]は(美しい木)を表す。
「塩栯嶋(シオイクジマ)」というのは(美しい木の茂る塩の固まった島)という意味で記されたものと思われる。
それが後に「塩楯島」と記されるようになったのであろう。誤記として片付けるべきではあるまい。
--蓼螺子(タデニシ)…出雲国風土記考証p82解説で「蓼螺子は&ruby(ナガニシ){長辛螺};のことであって、味が辛いから蓼螺子とも辛螺子とも書く」とある。イトマキボラ科の巻貝らしい。味が蓼のように辛いことから蓼螺子と云うらしい。(食したことがないので不詳)
--永慕…細川家本k16・日御碕本k16・倉野本k16・紅葉山本k13・出雲風土記抄・上田秋成書入本・鶏頭院天忠校正本、いずれも「永慕」となっている。
萬葉緯本k20・萬葉緯(国会本)k20・出雲風土記解-上-k46で「永蓼」
校注出雲国風土記は「水蓼」としている。水蓼は川蓼の事で、ヤナギタデの変種であり水中に生えるものを云うらしい。
講談社学術文庫ではp83で「&ruby(ながたで){永蓼};」、p84で「ヤナギタデ」と記している。
訂正出雲風土記ではこの部分を欠いており、これを底本とした出雲国風土記考証・標注古風土記でもこの部分を欠いている。
---[慕]に(モ)の読みがあるので「永慕」は「長藻」いわゆる「アカモク」のことかと思われる。

(塩楯島)
https://fuushi.k-pj.info/jpgk/shimane/ou/matue-c/siotate.jpg

***&color(navy,){野代海中蚊嶋周六十歩中央温土四方並磯&size(9){中央有毛掬許木一許茸日磯有蟻有螺子有海松};}; [#b2097116]

&color(darkgreen,){野代の海中に蚊嶋あり。周り六十歩、中央は温土にて四方は並びに磯。(中央に毛掬許りの木一つだけあり。曰く磯に蟻有り、螺子有り、&ruby(ミル){海松};有り)};

--蚊島…出雲風土記抄に『野代海中ノ蚊島ハ正字ハ蓋シ可作嫁島ニ欤 在于意宇郡乃木之海中 俗曰&ruby(ヨメ){婦};嶋~』とある。即ち「正字は嫁島(カシマ)か」と推察している。
松江城築城の際、この島から石を切り出したと云われているから、現在とは随分違っていたと思われる。松江城を作った堀尾忠晴がこの島に弁財天の祠を建てたことから弁天島とも呼ぶ。
---蚊島が嫁島と云うのは疑問。蚊が居る島で構わないと思う。一度機会があり水中参道を通り上陸したことがあるが、確かに蚊が居た。
「嫁が島伝説」と云うのが幾つかあるが風土記作成以前からの伝説であるなら、それなりに記述されていたであろう。
その様な記述がない以上嫁島と云うのは風土記作成以後の表記と考えられる。

--温土…湼土・涅土(クロツチ)の誤記と思われる。
--毛掬…「十掬」或いは「手掬」としているものもある。いずれにしても「ひと&ruby(スク){掬};い」=「僅かばかり」と云う意味である。
--有蟻…この文字を欠いているものもある。蟻がいたと云うことは、元は陸続きだったのであるかも知れない。
--螺子(ラシ・ニシ)…巻き貝のことであろう。特定はし難いがアカニシのことであるかも知れない。砂泥地の浅海で捕れ食用になる。
--海松(ミル)…塩水中で育つ海藻であるから、当時は宍道湖の塩分濃度が高かったことを示している。
寛永年間に宍道湖に出雲大川(斐伊川)の水が流れ込むようになり淡水化がすすんだ。

***&color(navy,){自茲以西濱或峻堀或平土並是通道之所經也}; [#k2b6b7d0]

&color(darkgreen,){茲より以西の浜、或るは&ruby(シュンクツ){峻堀};、或るは&ruby(ヒラツチ){平土};にして、並びに是れ&ruby(カヨイミチ){通道};の&ruby(ヘ){經};る所也};

***&color(navy,){道通国東堺手間剗卅一里一百八十歩}; [#nbd2b0ae]

&color(darkgreen,){道、国の東の堺なる&ruby(テマノセキ){手間剗};に通うは三十一里一百八十歩};

--手間剗…手間関。出雲風土記抄に『手間剗者能儀郡関村也』とある。
島根県と鳥取県の県境、伯太町の要害山(手間山)北西方向に関山という峠があるので、此処であろう。(安来市伯太町安田関関山)[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.385700/133.314457/]]

***&color(navy,){通大原郡堺林垣峯卅二里二百歩}; [#n24fa226]

&color(darkgreen,){大原郡の堺なる林垣峯に通うは三十二里二百歩};

--林垣峯(ハヤシガキノミネ)…出雲風土記抄に『大原意宇二郡ノ堺林垣者来待ノ郷和名佐与大原郡幡屋山之堺也』とある。
松江市宍道町上来待和名佐から雲南市大東町&ruby(ハタヒヨドリ){畑鵯};に通ずる県道25号線の峠であろう。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.370208/132.979631/]]
峯としているのは、峠の東方側に254.0mの急峻なピークがあるのでそれを指しているのだと思われる。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.370873/132.981477/]]
『出雲国風土記』大原郡の通道では「木垣坂」とある。木垣なら木の垣で理解できるが林垣では理解しがたい。おそらく誤記であろう。則ち「木垣坂・木垣峯」が正しいのであろう。
・出雲国風土記考証p84解説で「郡家から西へ殆んど直線に進み、今の&ruby(のしら){野白};に於て&ruby(ヌシロバシ){野代橋};を渡り、&ruby(ふじな){布志名};、&ruby(ゆまち){湯町};、&ruby(たまつくり){玉造};、&ruby(おほだに){大谷};、&ruby(わなさ){和奈佐};へと通り、大原郡へ越す。林垣峰は和奈佐から大原郡の&ruby(はたひよどり){畑鵯};へ越す峠をいつたものであらう。」とある。
(和奈佐は今の和名佐であろう)
・校注出雲国風土記では「木垣峯」と記している。
・修訂出雲国風土記参究p177〔参究〕で「木垣峰は郡界の八十山(標高四〇〇米余)で、路程はその登山口、大原郡大東町に越す&ruby(えんじょ){遠所};越までをいうのであろう。路程は十七・九九六粁で郡家から湯町を経て峠までに至る距離にあたる。山麓に「古来垣」という所があるのはその異称であろう。さすれば諸本に「林垣峰」となっているが、大原郡末通道の条に「木垣坂」とあるに従うべきであろう」と記している。ここに八十山というのは八重山(407m)の事で峠道からはかなり西方になる。

---加藤は遠所越というのを、遠所の里から八重山を越えて小林に達する今はないルートとして捉えていたのかも知れない。標高差90mもある高地を選んで通る意味は無い。



***&color(navy,){出雲郡堺佐雜埼卅二里卅歩}; [#g889e357]

&color(darkgreen,){出雲郡の堺佐雜埼、三十二里三十歩};

--佐雜埼(サソウザキ・ササフノサキ)…出雲風土記抄に『佐雜埼者意宇郡伊自美村与佐々布村之堺乃此佐加恵谷也 伊自見旧在出雲郡而今則属于意宇郡也』(佐雜埼は意宇郡伊自美村と佐々布村の堺の此佐加恵谷なり。伊自見はふるくは出雲郡にありて今は則ち意宇郡に属すなり。)とある。
「宍道町歴史叢書」によれば、古山陰道は現在の山陰自動車道宍道JCTと国道9号線の間、小佐々布と呼ばれる地区のやや南方の山中を通じていたと考えられ、その小山辺りが佐雜埼と推定されている。[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.392094/132.884295/]]

***&color(navy,){通嶋根郡堺朝酌渡四里二百六十歩}; [#k1b91098]

&color(darkgreen,){嶋根郡の堺なる朝酌渡に通うは四里二百六十歩};

--朝酌渡(アサクミノワタリ)…出雲風土記抄に『嶋根郡堺朝酌渡者意宇郡山代郷内間潟村与嶋根郡朝酌郷内福冨村之中間渡頭也』とある。
現在の松江市大橋川の両岸、矢田町と朝酌町の間に「矢田の渡し」[[地理院地図:http://maps.gsi.go.jp/#15/35.452787/133.103013/]]というのがあり、此処であろう。
2021年大橋川河川改修工事の際、近くから古代の石敷護岸跡が発見され、朝酌渡の一部であろうと推定されている。

***&color(navy,){前件一郡 入海之南此則国廊也}; [#h1831b9e]

&color(darkgreen,){&ruby(サキ){前};の&ruby(クダリ){件};の一郡は入海の南、此れ則ち国廊也};

--一郡…意宇郡のことであろう。
--国廊(コクロウ)…国の通り道。中央道といったところか。「国廊」を出雲風土記抄では「國務」としているが注釈無く不明。
春満は春満考(内閣文庫)k21で「今案廊ハ廳の誤なるべし」としている。

***&color(navy,){郡主司主帳&size(9){无位海臣无位出雲臣};&br;少領従七位上勲業出雲&br;主政外少初位上勳業林臣&br;槪主政无位出雲臣}; [#i9a1c6ca]

&color(darkgreen,){郡主司主帳(無位海臣、無位出雲臣)&br;少領従七位上勲業出雲&br;主政外少初位上勳業林臣&br;概主政無位出雲臣};

--記述者の表示部分である。「~臣」とだけあるため、実名不明。
--勲業出雲…勲業出雲臣であろう。
「勲業」は出雲国風土記考証に『考課の試によりて賜はる文位であって、文章生得業者をいふ』とある。
(これは栗田寛「国造本紀考」等による説らしいが未見)
・校注出雲国風土記では『諸本「勲業」とあるが、細川、倉野両本により推定して訂正』と注記し「勲十二等」としている。
下に細川家本・倉野本を挙げておくが、どういう推定を行ったのか記載はない。
・修訂出雲国風土記参究p178で
「郡司主帳&size(9){無位海臣&br;無位出雲臣};&br;少領外従七位上勲十二等出雲臣&br;主政外少初位上勳十二等林臣&br;擬主政無位出雲臣」としている。
・春満考k22「少領従七位上勲業出雲~ 今按業ハ十等欤十一等欤の字を転写誤りて 業の字に作りたるなるべし~」
「主政外少初位上勲業林臣 ~此業の字ハ 十二等の三字越業の一字尒あやま里多留欤」(十二等の三字を業の一字にあやまりたるか)とある。
これを受けたのであろう、田中卓により「勲業」は「勲十二等」とされたらしい。加藤はこれをひいている。
・田中卓は「出雲国風土記の研究」p10に於て、「出雲国計会帳」(正倉院文書・国宝)にある出雲臣廣嶋の位階表示を参照比較している。
残念ながら「出雲国計会帳」の書影はネット上に公開されていない。
[[「出雲国計会帳・解部の復元」平川南(pdf頁):https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=363&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1]]の(校訂・出雲国計会帳)k20を参考すると、天平五年八月の記載に
「一、廾日符壹道 國造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣廣嶋追状 以八月廾五日到國」とある。注記として(勲、モト「動」に作る。)
これと[[『出雲国風土記』後記k52:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E5%BE%8C%E8%A8%98#kef39eac]]にある「國造帯意宇郡大領外正六位上勲業出雲臣廣嶋」という記述を手がかりにして比較し、「勲業」は「勲十二等」の誤記と判断している。
但し、出雲臣廣嶋以外の7名に関してはP329で「しかし万全を期してこの七名については「勲十口等」と考えておくことがより慎重であろう」と記し、一律に「勲十二等」とはしていない。
上述、加藤や山川版では、これを無視し、一律に「勲十二等」としている。
田中の考察過程部分は長文なので書影として挙げておく。[[「出雲国風土記の研究」書影:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?cmd=read&page=-%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6]]

---勲等は位階によって与えられる等数が定まっており、一律に「勲十二等」としているのはおかしい。
例えば従七位であれば勲十等。
春満は従七位上だから勲十等か勲十一等、初位だから勲十二等かと推察したのであり、一律に勲十二等とは推察していない。
田中卓の考察に関して、出雲臣廣嶋は「正六位上」であるなら、これは「勲五等」であるはずであり、勲十二等とすることには疑念が残る。
尚、田中卓は出雲国計会帳との比較を自身の発見のように喧伝しているが、すでに春満によって指摘されていたことである。


>・[[細川家本k16:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%9C%AC#n59e2d0a]]
「郡主司主帳&size(9){无位海臣&br;无位出雲臣};&br;少領従七位上勲業出雲&br;主政外少祠位上勳業林臣&br;槪主政无位出雲臣」
(山川版p90では
「&color(red,){郡司};主張&size(9){无位海臣&br;无位出雲臣};&br;少領従七位上勲&color(red,){十二等};出雲&br;主政外&color(red,){少初位};上勳&color(red,){十二等};林臣&br;&color(red,){擬};主政无位出雲臣」と改変。これは加藤の説の丸写しであり、細川家本の記述ではない。)

>・[[倉野本k16:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%80%8F%E5%80%89%E9%87%8E%E6%9C%AC#h6e1f00c]]
「郡主司主帳&size(9){无位海臣&br;无位出雲臣};&br;少領従七位上勲業出雲&br;主政外少祠位上勳業林臣&br;槪主政无位出雲臣」

>・[[出雲風土記抄1帖k47:https://fuushi.k-pj.info/pwk8/index.php?%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E6%8A%84%E3%80%8F%E6%A1%91%E5%8E%9F%E6%9C%AC#wbc5c833]]
「郡主司主帳&size(9){無位海臣&br;無位出雲臣};&br;少領従七位上勲業出雲&br;主政外少初位上勲業林臣&br;概主政無位出雲臣」


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「出雲国風土記要図」意宇郡・大原郡
https://fuushi.k-pj.info/jpg/map/izumofudokiyouzu_ou.jpg

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[[『出雲国風土記』嶋根郡]]

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