「古代への情熱」 シュリーマン著 
 中学の頃読んだ本である。
ギリシャ神話を信じ、一生をかけて古代トロイ遺跡の発掘に成功したシュリーマンの著作である。

昨今ヤマタイ国論争が盛んに行われるが、今尚結論はでない。当分出そうにない。
遺跡が一つ発掘される度にアーでもないコーでもないと、かまびすしい。
ヤマタイ国に関しては、持論はあるが、具体的に表明する気にならない。
ヤマタイ国の所在を特定するためには、考古学上の発掘による実体確認が必要である。
遺跡は土地の下に眠っており、当然土地はその所有者がいて、偶然性に期待しなければ特化できないのである。
 今、戦前戦後の変動の激しい時代変遷の中で、次々失われていく風俗・伝承を収集しておくことの方に重要性を感じる。
所詮、古事記も日本書紀も政治的に構想された偽書である。
 それに対し、伝承というものは、時の積み重ねの中で抽象化・不明瞭化はされてきているものの、より人々の暮らしに裏打ちされているという重みを感じるのである。話が身近なのである。
 岩波文庫版「古事記」「日本書紀」には多くの解説が載せられているが、例えば多岐津彦命を「滝の神であろう」等と記載していることを見ると、何ともいい加減な事を、とあきれてしまう。

 各地を歩き回っている時、時折「なんとつまらぬ事を私はやっているのだろう」等と思うことも多い。
たいていの場合、何の成果も無い無駄足に終わることが多いからである。
そんなとき、このシュリーマンを思い起こす。今更読み返すことなど無いが、それでも心に深く残っている。

 実際にシュリーマンの手になる発掘は、その後の発掘で、シュリーマンの夢想したトロイ遺跡では無かったが、
神話・伝承が、歴史的事実の裏付けを持っていたことを実証した功績は、最上級の賛辞を与えられるべきものである。

九州王朝説を批判する人には、なぜ「九州」と呼ぶのか自分で少し調べてみてもらいたい。
この一言で充分である。

調べぬ人は相手にする必要はないし、調べた人なら解るはずである。
伝承とはそういうものなのである。