継体天皇
古事記……「袁本杼命」
日本書紀…「男大迹天皇・彦太尊」
継体の出自は福井である。
父は彦主人王、母は振姫、とされ、
彦主人王は滋賀県高島郡付近に居住し、振姫は福井県坂井郡三国町に居住していたと云われる。
彦主人王が、三国から振姫を娶り、継体生誕後まもなく、彦主人王が亡くなったので、振姫は継体を連れて三国に戻ったと云う。
三国町の三国神社が継体の育成地とされている。
彦主人王は応神の4世の孫、振姫は垂仁の7世の孫とされている。
応神から継体までの系譜は一応上宮記逸文などでたどることが出来るが、この逸文自体怪しい面がつきまとう。
継体でなければならなかったという必然性には、尚疑問が残るのであるが、
特筆しておくべき事は応神後三世代までは息長氏との関係が深かったらしいという点であろう。

継体には九頭竜川治水に関する伝承などが残ることから、この方面で勢力を培っていたことは想像できる。
継体が、武烈の姉である手白香を娶り、欽明を生んだという件に関しては、疑問が多い。

さて、継体は大伴金村に擁立された訳であるが、擁立に際して、河内馬買首荒籠に探索させ、
当初は河内の樟葉宮(大阪府枚方市)に宮居している。
5年に山城筒城宮(京都府綴喜郡田辺町)、更に12年山城弟国宮(京都府乙訓郡)を経て、20年磐余玉穂宮(奈良県高市郡明日香村)に入ったとされる。
この20年間大和に入らなかった若しくは入れなかったことに関して、以前から色々取りざたされているが、
それはやはり、系譜の正当性に問題があるからであろう。
継体の宮居の地を考えると、河内、田辺はいずれも古来より百済系の色濃い地である。
更に半島との関係で考えれば、任那4県割譲の件も併せて、継体は明らかに百済系である。
この事は、応神の出自や天日矛の系譜に関連してくるのであり、
大和に20年間入れなかった件は、武烈までの系譜が百済系ではなかった事を逆に示していると考えられるのである。
継体期で難しいのは磐井に関することであるが、その前に継体から欽明に至る紀年の問題を整理しておく必要がある。

継体即位前後から欽明没前後に至る紀年はかなり錯綜としており、この辺りの解明が、古代史論考上の最重要ポイントであろう。

   古事記 日本書紀(称元法:即位翌年を元年とする) 上宮聖徳法王帝説 元興寺縁起
継体 没年:丁未(527)年4月9日43歳
没年:25年辛亥(531)年春2月丁未日(7日)没82歳
或云:28年甲寅(534)年崩
 
 
安閑 没年:乙卯(535)年3月13日 没年:2年12月17日没70歳  
 
宣化 没年:4年2月10日没73歳  
 
欽明 宣化没、4年10月と記す
12月5日即位
13年10月仏教伝来
32年4月15日以降没、歳不明
崩年:辛卯(571)年在位41年
(欽明即位年は531年?)
欽明7年戊午(538)年12月仏教伝来
(欽明即位年は531年?)
敏達 治世14年
没年:甲辰(584)年4月6日
没年:14年8月15日没
 
 

金石と比較すると、
書紀継体17年、百済武寧王薨とある。武寧王墓誌によれば、523年に該当する。
即ち、これによれば書紀に云う継体即位年は506年、その没年継体25年は531年となる。

一方隅田八幡宮人物画像鏡によれば、「斯麻」の記述は武寧王を指し、継体と思われる男弟王に関する記述が、癸未年8月とあり、
これは503年に相当し、この年が日十大王の年とある。では日十大王が継体の前王武烈かというと、そうは云えないのである。
さて、問題点を色々論っていても仕方がないので、そろそろ自論を記す事としよう。
古事記、日本書紀、の紀年には混乱、若しくは作為がある。
それが混乱であるのか作為であるのか、私は作為と見る。それは、書紀継体期の最後の記述、「後勘校者知之也」による。

先ず、継体没年は531年、欽明即位年も531年であろう。
安閑、宣化は正式に帝位についたか否かは怪しい。
古事記の記載、天皇没丁未4月9日、これは継体のことではない。
武烈の後継王がいて、その死を記載したのではないかと考える。
この後継王を継体が襲い、大和入りを果たしたのだと考えている。
磐井の件は、かかる継体に対して行われた戦であったという意味があるのだと思われる。
三国史記によれば、金官加羅国滅亡が532年である。
欽明がその治世において繰り返し任那復興を云うのは、欽明が任那と深い関係があったからに他ならない。
欽明は又百済とも深い関係があったのでもあろう。(一説には欽明の母、手白髪は百済武寧王の娘とも云う)

磐井は親新羅系と私は見ているが、伝承に磐井が豊前求菩提山に走ったというのは、この方面に新羅系辛島氏がいたからに他ならない。
辛島氏は宇佐の巫女を出す家系であり、遠祖は五十猛命とされ出雲系でもある。
磐井は敗戦に際し宇佐の三氏族に対し調停を求めたものと考えられるのである。無論継体が息長氏の系譜である事とも無関係ではない。
宇佐が歴史の表舞台に出てくるのは欽明期からであるが、この様な背景と無関係とは云えないのである。
即ち、韓半島縁者の調整役としての働きが強かったのである。

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