武烈天皇 |
古事記……「小長谷若雀命」 日本書紀…「小泊瀬稚鷦鷯天皇」 |
即位前、大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つ。 武烈4年、百済武寧王即位とある。これは501年に相当する。 すると、武烈1年は498年となり、 崩年武烈8年は505年となる。 書紀記載干支とは多少の差異がある。 |
武烈の死について、「天書」では、その暗殺を記している。 曰く、「人有りて密かに帝を聖寝に刺す」と。 |
さて、武烈に関する暴虐さに関する書紀の記述は、かねてより剽窃文との見解が多い。 即ち、継体の妥当性を示すために、その非道ぶりを必要以上に記しているとの見解である。 とりわけ、ほぼ同時代である、百済末多王との類似性が目立つのである。 この事から、武烈の非実在説も出てくる訳であるが、平群氏の誅殺の件から、武烈の実在の可能性はあると私は見ている。 ただし、王権系譜の正当性にはかなり混乱があり、関西王権の主導権争いが尚続いていたのであろうと考えている。 つまり、河内方面の勢力と奈良盆地方面の勢力との争いである。 その過程で、この時期に主導権を握ったのが、大伴氏であった。 仮に、武烈暗殺が真実であるとすれば、その首謀者は大伴金村であったと考えられる。 それは、王権の特定氏族による絶対化を阻止するためのものであったであろうと考えている。 この事は、仁徳以降雄略まで、その皇后が葛城氏の出自であるのに対し、その後は春日氏・息長氏に転じている事からも 推察できる。 この時期、即ち5世紀時期において、関西王権は尚不安定なもので共立王権の色彩が強かったことを物語っている。 |
(続く) |