崇神天皇
古事記……「御眞木入日子印恵命」
日本書紀…「御間城入彦五十瓊殖天皇」
崇神に関して、私は個人的にこの人物が大嫌いである。
理由は単純です。

崇神という漢風諡号は、神を崇敬したという意味ではなく、
神に祟(たた)られたという意味だと考えられるからです。

崇神記に関して、
書紀の作文が異常である点。つまり神追いが異常に多い。
(祭ると言いつつ、実は放逐している)

6年条、百姓流離。背反。
天照大神、倭大国魂、大殿より放逐。
10年条、四道将軍派遣の際の言、「若、教を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」
60年条、出雲神宝強奪

この国で、八百万の神々は、むやみやたらとたたるものではありません。その神々がたたると云うことは、それなりの事を崇神がしでかしていたのでしょう。神に仮託されているのは、その神を祖神とする一族に他なりません。
神性には和魂と荒魂の二面がありますが、崇神に関しては荒魂ばかりが窺えます。
崇神が放逐もしくは神追いした神々には、天津神、国津神、共に含まれていますから、崇神自身が在来の一族の出自ではないことを裏付けています。

10年9月9日条
「御間城入彦はや己が命を弑せむと窃まく知らに姫遊すも」のわざ歌もこれを示していると云えるでしょう。

百襲姫というのは、なんとも象徴的な名だと思います。
当然の事ながら、百襲姫をヤマタイ国ヒミコに比定したり、箸墓古墳をヒミコの塚に比定することなど、論外です。
ヒミコの弟が崇神だ等という説も、無論笑い話です。
崇神に関して、神武伝説の原型とされることがありますが、
崇神が北九州出身と云うことは、断じてあり得ません。
崇神に関して特徴的な地域は、能登半島です。
能登周辺には、崇神期創建神社が、非常に多く、
崇神との関係を窺わせます。

崇神が騎馬民族の一派で、半島から南下した一族だという著名な説がありますが、
これも話しになりません。
九州、中国地方に、崇神にまつわる伝承は皆無です。

私見では、崇神はオロチョン族の一派で、能登から侵入してきた部族です。
国風諡号にある、印や瓊の文字は、翡翠産地である糸魚川を思わせます。
垂仁とは表裏の関係にありますが、景行とは無縁です。

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