ヤマタイ国比定地論争 |
《末廬国と伊都国》 末廬国というのは、現在の東松浦半島辺りと考えられています。 糸島水道があった頃、(糸島は当時、島であって、その間の水路を糸島水道と呼びます) 玄界灘の海流の速さを考えれば、船泊まりとしては 今津湾が妥当でしょう、端梅川河口周辺は、天然の良港で、 今宿辺りが伊都国の中心地だったと考えられます。 「伊都国、郡使の往来常に駐まるところなり。」 要は、船泊港としての資質の良さから、 入国管理局のようなものであったのであろうと考えられます。 唐津湾の前原方面は、潮の流れが環流するはずですから、 船泊まりとしては、不適当です。 当然、末廬国から伊都国へは陸路をとるのも、妥当なところです。 (魏使一行は、日本海の荒波で船酔いして、早く陸に上がりたかったのかも知れませんね) 呼子→今宿66km 今宿→那の津13km これは、現在の国道に沿った距離ですが、 末廬国→伊都国 500里 伊都国→奴国 100里の比にきちんと当てはまります。 |
《投馬国とヤマタイ国》 投馬国やヤマタイ国行程の起点は伊都国でしょう。 不彌国を起点にする説がありますが、不彌国が宇美であると考える限り、無理です。 宇美は三方を山に囲まれてますから。 (宇美川は、実際見れば解りますが、ホンの小川) 「行」の字は、単純に、まっすぐ進む意味では無いのです。 進んだり、止まったりしながら進むのが「行」 偏は進む、旁は止まる、と云う意味ですから。(異論もあるようですが) トロトロ進んだと云うことで、 誰が行ったかは別として、 A)玄界灘から響灘、周防灘、日向灘とトロトロ進んで、 現宮崎一ツ瀬川を遡上して西都、投馬国着。 東回りの南下航路。陸路不要。 B)一方、玄界灘から壱岐水道、角力灘、橘湾、島原湾、有明海と トロトロ進んで八女、ヤマタイ国着 西回りの南下航路。 陸路を直接南下すれば、トロトロ進んで陸行1月。 (イヤー陸路だと途中接待が多くって・・・、距離は伊都国から1500里弱程しかないのにねー) A、B、比較すると、航海距離は約二倍、 水行20日、10日も妥当なところです。 そういえば、 磐余彦=神武が宮崎美々津から出てきたときも、書紀に依れば 10月5日に出航して、11月9日に芦屋着となっていて、1ヶ月以上かかっています。 まあ、あれは、佐賀関や宇佐で遊んでいたし、風に逆らっての北上だった訳で、余分な日数もかかったのでしょう。 話はそれますが、美々津から出航というのはなかなか賢明です。 美々津までは陸路で平坦だけど、あそこから北は、山が海岸まで迫っているからしんどい。 でも、美々津からの出航では、大船団は組めません。 耳川なんて、小さな川だし、流れは急で、港も小さい。 東征なんてかっこいい話しにはならない。 神武遁走の方が当たっています。 |
以前、魏使の直接南下コースを考えたことがあります。 筑紫野から、 山口川、宝満川、筑後川、という川下りルートです。 で、見に行くわけです。私のことですから・・・。 筑後川はともかく、山口川、宝満川を、魏使をのせて下るとすれば、 小さな川船でないと無理。 筑後川に達したら、より大きな船に乗り換え無ければならない、 更に有明海に着いたら、更に又大きな船に乗り換えなければならない。 乗り換えの度に、荷物の積み替えもあるわけです。 長期旅行をする者は、そんな面倒なことはしない。 と云うのが結論。 更に、「郡より女王国に至る万二千余里」 海路陸路の里程差は無視して、単純に考えても、 伊都国から1500里以上ではない。 つまり、さほど遠くではない。 と云うことで、私は直接南下コースは無理と判断した次第です。 那珂川は海運には使えるでしょう。 但し、この川を遡上すると春日方面に行ってしまいますし、直に背振山中に入ります。 太宰府方面に行くなら、御笠川の方でしょう。 不彌国が、宇美ではなく、太宰府なら、一息ついて、荷を積み替えて、 太宰府から宝満川の川下り南下コースも考えられます。 只、魏使が通ったかどうかは別です。 |
中量、大量の文物や人員輸送には海路は効果的です。 だから、倭人=海洋民なのです。 今、船を失った日本人は、船便の有効性を忘れ去っていますね。 何でも自動車。 陸路であっても。川筋を船で航行するのが、当たり前の事だったのに 建設省などが、治水とかで堰を作りすぎたため、分断され、使い物にならなくなっているのです。 川は泣いているぞー!!!。 |
傍余の国を考えると、 これらは遠賀川流域にあった諸国ではないかと思われます。 斯馬国は、「島津」であろうし、 鬼国は「鬼津」若しくは「洞北」でしょう。 鬼津は今「おにつ」と読みますが、すぐ近くに木津と云う地名もあり、これは「きづ」と読みます。 また洞北は「きほく」と読み、洞南という地名もあり、これは「きなん」と読みます。 その他の比定地は略しますが、概ねこの付近と周防灘沿岸地帯だけで特定が出来るのです。 何の脈絡もなく、紀伊や伊勢、丹波、尾張、越、等を比定地にする必要など無いのです。 「女王国東渡海千余里亦有國皆倭種」もきちんと説明できるわけです。 |
さてと、熊本について、かつてヤマタイ国熊本説は成り立たないかと考えて、色々歩いてみたことがあります。 投馬国、その南にヤマタイ国と直線コースで考えると、 投馬国が、上妻・下妻で、ヤマタイ国が熊本として、一応検討の余地があるのですが、 いかんせん、熊本は茫洋として、何も出てこない。 色々歩いたあげく最後に残った場所で、可能性のありそうなのが、 健軍の辺りなのですが、陸上自衛隊が、デンと腰を据えていて、調べようがない。 更に、熊本は何処も阿蘇神社の影響が非常に強く、北九州とは異風さを感じます。 (その境界は菊池・山鹿) 仮に、一時熊本付近にヤマタイ国があったと仮定しても、おそらくは、 狗奴国との戦闘状態の中では、宮都を遷したと考える方が妥当です。 私の知る限り、まず何も出てこない。 阿蘇の噴火で埋もれたとでも考えれば別ですが・・・・・。 八女に亀甲がある限り、熊本説をとることは出来ません。 |
投馬国が鞆の浦(鞆津)だと言う説があります。 鞆の浦がどんなところか、実際行って見たことがあるのでしょうか? ちゃんちゃらおかしくて話しになりません。 一論を立てるとか、それを支持するというのなら、現地を見てきてからにしてくれと云いたくなります。 その好例。 鞆の浦なんて、ほんの小さな漁村。 風光明媚で真鯛は美味しいけど。 五万余戸なんて、とてもとても、 五十戸の間違いだとでも併せて言わなければ、お話になりません。 北方の福山、府中を含めるというなら、国名になぜ投馬を代表させているのか、説明がつきません。 |
投馬国が出雲だと言う説もあります。 出雲って云っても、結構広いんですよ。 船旅なら、出雲の何処に停泊したというのか、はっきりして欲しいものです。 2世紀後半頃の出雲がどんな状況だったか、きちんと把握した上でね。 稲佐?湖陵?十六嶋?鹿島?加賀?千酌?七瀬?境港?安来?etc いったい何処だと云うんでしょ? それぞれの港に特徴があるんですよ。得手不得手がね。 それを語らないで、漠然と出雲だなんて云っても、話しにならない。 具体性に欠ける観念論。思い込み。一番始末が悪いのです。 子供がだだをこねているようなものです。 |
投馬国が周防佐波だと言う説もあります。 佐波って今の防府だと思っている人が多いようですが、違うのです。 佐波川沿岸一帯で北は徳地辺りから、南は大道辺りまで。 中心が右田辺りですね。概ね佐波川北岸 2世紀頃、現在の防府は大半が干潟。 ひたすら埋め立てて今の防府になったのです。 玉祖神社以南は海だったのです。 5万余戸なんて、とても無理。 |
ついでに投馬国が但馬だと言う説もあります。 丹後半島辺りを云ってるんでしょうけれど、ここも五万戸は無理。 ましてや、九州から日本海側航路を取って、出雲を無視できるはずがありません。 出雲と但馬と比較してどちらが重要か考えても解ります。 |
投馬国、玉野説が出ました。 玉野は鞆の浦よりましでしょうが、玉野だけでは5万戸は無理。 吉備を含めるとして、児島はまさに島であって、早島水道辺りで分断されていたのであり、玉野をこの地方の国名の代表には出来ないでしょう。 それに、玉野って、玉と宇野、日比が一緒になって玉野になったので、古い地名ではないですよ。 明治になって宇高連絡船の岡山側の拠点になってから発展したのであって、 それ以前は、全くの寒村です。 弥生期の海路上の拠点は、穴の海、つまり、倉敷方面。 |
ヤマタイ国関西説論拠の一つ、投馬国の比定地はいずれも具体性がないのです。 他の比定地があるのなら、出してもらって構いませんけど。 投馬国の比定地がきちんと説明できなければ、その先と主張するヤマタイ国の比定など 出来るはずかありません。 |
関西説をとなえる方達は、要するに、その比定地に具体性を欠いているのです。 途中の諸国を具体的に語らず、何が何でも巻向辺りにヤマタイ国を比定しようとする。 (その一方で、九州説者が具体的比定を行おうとすると、ケチはしっかり付ける) 巻向に比定するためには、魏志記載の内容を、いかようにでも読み替えるわけです。 南を東に読み替えたり、距離を読み替えたり、何でもあり。 そうまでしてヤマタイ国は関西だと主張する熱意には感心します、否、呆れます。 結局は、万世一系の天皇家信仰が染みついていると云うことでしょう。 こう云うと、「万世一系とは考えていない」とは一応云うんです。 でも自己矛盾には気づこうとしない。 |
《おまけ、魏の度》 度量衡と云うのは、数量の単位ですが、 長さ=度 容積=量 重さ=衡 として表します。 中国では周の時代からあったと言われていますが、 全国的に統一されたのは秦の始皇帝によるものが最初で、王朝の専管事項になりました。 しかし各王朝で、少しずつ違いがあり、時代を経るに従って大きくなる傾向があります。 基本単位は黒黍の実で、一粒の大きさを基準にしています。 魏の場合を例にすると、次のように考えられています。 里=300歩 (歩=6尺) 里=300歩=1200尺 (魏尺=24.12cm←about) 里=1200尺=28944cm=289m 100里=28900m=28.9km 500里=144.5km 1000里=289km 2000里=578km で、魏志倭人伝の里程ですが、困ったことに現在の実数値には合わないわけです。 対馬海峡=約200km←about(2000里) ※200÷578=0.346…(海路の場合の実数値との比) 呼子→今宿=66km(500里) ※66÷144.5=0.456…(陸路の場合の実数値との比) 概ね、魏志では倭国を遠くにあって、大きい島と捉えていたと云えるでしょう。 |
《お遊び》 で、投馬国、ヤマタイ国に関して、ちょっと遊んでみると・・・・。 水行20日:20×0.346=6.9日 水行10日:10×0.346=3.46日 陸行1月(30日):30×0.456=13.6日 まあ、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。 伊都国→ヤマタイ国=1500里=500里×3 66km×3=198km 八女を越えちゃう。(^^ゞ で、何処が問題かというと、対馬方400里、一大国(壱岐)方300里の部分を どう処理するかと言うことですが、これを大胆に引いてしまえば、 伊都国→ヤマタイ国=1500里ー700里=800里 66÷500×800=105km まあ何とか納まります。(^○^) 無論、これはこじつけですが、他説も似たり寄ったりですから。 お遊びと云うことで・・・。 |
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