銅鐸について
銅鐸について、色々見解が表されている。
原田氏の銅鐸への挑戦を、批判的に記した以上、一応の私見を記しておく事にする。

小型銅鐸は、当初大陸から持ち込まれた楽器であろう。
大型銅鐸は、何に使われていたのか。
私はこれを、地鎮祭祭器と見ている。

今でも、家屋新築の際には神官を呼んで、祝詞を上げ地鎮祭を行うが、
家屋レベルではなく地区レベルで行う地鎮祭の祭器であったのだろうとみているのである。
大地の災いというと、地震・洪水などであろうか。
既に何処かで記したが、一個人が祀る神は、産土の神、氏の神、そして地主の神であるが、
最も生活に結びついているのは、この内の地主の神である。
これは、生活している場所の土地の神であり、この神が起こす土地の災いを避ける為に行うのが地鎮祭である。

銅鐸は元々楽器であり、いわゆる地鳴りを連想させる。
又、銅鐸には、多く流水紋と呼ばれる文様が見られるが、水害を連想させる。

その様な象徴として銅鐸を祭器に用い、これを祀り、引き起こされるであろう地鳴りや洪水は
この銅鐸に仮託し、地主神を鎮め、大地に埋めてしまう。
その様なものであったのではないかと見ているのである。
銅鐸が発見される際、意図的に埋められている状態で他と独立して発見されるのはこの様な意味があるのだと思われる。
傾斜地で発見されるのも、地滑りを鎮める意味があったのであろう。

現在の地鎮祭では、四方に竹を植え、注連縄で囲い、中央に海の物、山の物を供える祭壇を作り、ここで祝詞を上げる。
その後、荒塩を四方に撒いて、祭礼とするが、これは中臣系の祓いの祭祀で、地鎮祭というよりもむしろ厄除け祭祀である。
つまり、悪しき神をその土地に近づけないための祭祀で、地主神を鎮める祭祀とは異なるのである。

地主神を鎮めるのは、最初にその土地に入ったとき、その土地全体を支配する地主神に対して行うもので、
その後、大地の災いが無ければ、度重ねて行う必要は無かったのであろう。
それ故、その土地での暮らしが長くなれば、この地主神に対する祭祀は行われる必要もなく、
次第に衰微し、忘れ去られていったのであろう思われるのである。

新年初詣というのは、地主神を祀った神社に参詣するのが本旨である。
一年間の息災を祈念するわけであるが、これで地主の神に対する祭礼は済むわけであるから、
特段のことがなければ、年々息災で、上記の様な地域全体に対する祭礼は行われなくても良いわけである。

良く考古学上の発見が行われた際、古代の祭祀場跡であるとか、祭器とか、いかにもそれらしく解説が行われるが、
文化の連続性を考えれば、かく語る際に、それがいかなる祭祀で、いかなる祭器であるかを語らなければ、
それは、説明にも解釈にもならないのである。
解らぬ時に何でも祭祀に結びつけてしまうのは、どうにも無責任発言と感じるのである。
ついでに記すと、大型建築物などの場合鍬入れ式を行う。
これは、金神即ち国常立尊に対して、おうかがいをたてる儀式であったのが本旨であろう。
即ち、結界内で鍬入れ儀式を試しに行い支障がないことを確認するわけである。
今でも、民間信仰において土の障りを避けるため、冬場に金神を奉り、土の移動を忌む時期がある。
生活体験として、農耕民であれば土地の養生、大工などであれば、時期選択の意味があるのであろうが、
地鎮祭の鍬入れ式はこの様な祭礼と関連した儀式であると思われる。

出雲地方では、家屋新築の際等、大社の奥殿、素盞社の土を一握り持ち帰り、自家の土地に撒く風習がある。
大社の神官は意味不明で、困った風習だと嘆いていたが、より強い神格を以て地主神を鎮める意味を持っているのであろう。

古来、地鎮祭において、その終了後
建築地に鏡を埋納する風習があったことも追記しておく。

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