古代琉球
ヤマタイ国関西説でよく云われるのが、日本国と倭国が全くの同一国であると云う説です。
隋書や旧唐書の記述が誤りであり、錯誤であると云うわけです。
こうしておかないと、関西説が成り立たないからです。
この事を前提にして、倭国と東[魚+是]国が同一国であると敷衍するわけです。
中国に韓半島経由で来るのが倭人。南から来るのが東[魚+是]人であって、両者が同一であることを中国人は知らなかった。
と云うわけです。

おっとどっこい、「では、古代沖縄はどうなのだ。倭国に含まれていたとでも云うのか。」
と云う疑問が当然あるわけです。
これについて、関西説者は何も語りません。全く無視しています。
まあ、関西説者は、古来列島の中心は関西だと思っているわけで、関西以外の地域に関する
地勢条件、風俗風習に関して、自説に都合の良い場合を除き、ほとんど興味を示しませんから、無理もないのです。

琉球諸島が日本の支配下に入ったのは、江戸期に入ってからです。
1609年薩摩の琉球武力支配以降の話しで、それ以前に、琉球諸島が日本の支配下にあった、
あるいは日本の一部であった等と云うことはないのです。
琉球は薩摩支配を受ける以前において、独立しており、独自文化、独自風俗を培っていたのです。
中国各王朝との交流も独自に行っていたのであり、この様な事実を無視することは、
琉球人云うところの「ヤマトンチュー」の思い上がりに他なりません。

中国が云うところの東[魚+是]国、東[魚+是]人、とは、倭とは別の沖縄諸島のことであったと考えるべきなのです。
ところで、倭人と東[魚+是]人を同一視する発想がどこから来たのか、つらつら考えてみるのに、
これは、どうやら清朝地理学者、湖明経の「禹貢錘指」によるようです。

「楽浪東南海中に倭人あり。又東南海を渡る、大倭王国と為る。即ち漢の東[魚+是]人。
今日本と為る。云々」とあって、
倭と日本、東[魚+是]が、同一に理解されています。

これは、致し方のないことで、清の時代には、琉球は既に薩摩の属国に組まれているからです。
だからといって、漢、魏、や隋、唐の時代からそうであったなどと云うことは出来ないことは、
云うまでもないことです。
隋書には「流求伝」という部分があります。
流求と云うとき、小流求と大流求とがあり、小流求は台湾、大流求は沖縄を指します。
これは明朝期に沖縄の中山王が琉球王として朝貢したために、区別されたもので、
それ以前において流求とは台湾を指しており、隋書に云う「流求」は台湾のことです。
この辺り、事情を知らない人は、安易に流求=琉球=沖縄と思いこんでいる様ですから、
注意が必要です。

この意味では、琉球と云わずに沖縄と読んだ方が混乱を避けやすいのかも知れませんが、
琉球王国に敬意を表して、琉球と呼んでいます。
 考古学的に、7、8世紀沖縄は、尚先史時代で、沖縄諸島全体を取りまとめるほどの王権、
若しくは強力な部族は成立していません。

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