三種の神器 |
八咫鏡(ヤタノカガミ) 草薙の剣(クサナギノツルギ) 八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ) |
八咫鏡 天照大神の岩戸隠れの際用いられたとされる鏡。 伊勢神宮の神器であるが現存のものは、元来のものではありません。 伊勢に移る前、丹波の元社地が火災に遭い、ヤタの鏡が変形したそうで、そのため2面の鏡を作ったそうです。 一面が伊勢にあり、もう一面は、何処だったか、奈良だったか伊賀だったか、あの辺りの神社にあるとか。 二面の鏡を、伊勢のを表面、もう一つを裏面とか呼び分けていたのではなかったかな・・・。 千酔さんの記された、安本氏の記述は知りません。 本来の変形した鏡は、丹波にあるのではなかったかな・・・。 ちょっと、うる覚えモードです。_(._.)_ まあ、伊勢の方に御霊遷しをしてあるので、本物と言っても良いようなものですが、元来のものでは無いようです。 たしか、「この鏡を見るときは我が姿を見るとおもえ」等という意味の文字が彫られているとか・・・ 日本記略によれば、八咫鏡は、伊勢に移った後もたびたび火災にあっています。 |
草薙の剣は、素盞嗚尊が八俣の大蛇退治の際に得た刀で、 日本武尊が愛知県の熱田神社に残したとされています。 これも、日本略記によれば、平家滅亡の際、安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだと記されています。 |
八尺瓊勾玉は由来不明ですが、 瓊は赤色を意味しますから、瑪瑙で作られた赤色の勾玉と云うことでしょう。 (青色の翡翠で作られた巨大な勾玉を、八尺瓊の勾玉だと称している宗教団体がいますが、 お笑いぐさです) 八尺を文字通り受け止めると、かなり巨大な大きさと云うことになりますが、 本物を見たことがないので、何とも云えないのですが、 これは元は「弥栄」が正しいのではないかと考えてみたりしています。 と云うのは、勾玉は元来首飾りですから、巨大な勾玉と云うのは、何処か違和感を感じます。 一方、出雲地方の伝承で、大己貴命は、その死に際して、「6尺の勾玉を抱いた姿で埋葬された」という話が残っていますから、巨大な勾玉という話もまんざらでもないと思ったりもします。 宮中三殿の賢所に安置され、他の2宝とは異なる扱いを受けています。 この事から、玉爾の性格を持っていると云えます。 私見では、これは出雲の神宝で、月の象徴だと考えています。 乃ち、 天照大神…太陽神…鏡 素盞嗚尊…武神……剣 月読尊……月神……勾玉 但し、このような象徴化が行われたのは、大和朝廷の政権が安定してからのことであろうと 推察しています。 |
歴史ボードで三種の神器についての質問が多いので、初心者向けの予備知識として一応追記しておきます。 ☆八咫の鏡 「遠岐斯鏡」(おきしかがみ)とも云います。 「おき」と云うのは招くと云う意味で、神霊を招くという意味です。「し」は助詞。 天照大神が岩戸隠れした際、大神を呼び戻すために飾られたという鏡です。 ☆八尺瓊の勾玉 これも天照大神が岩戸隠れした際に、大神を呼び戻すために飾られた勾玉です。 ☆草薙の剣 天の群雲剣の別名です。 素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治した際、大蛇から取りだし、天照大神に献上したという剣です。 日本武尊が、東国遠征に際して、この剣を持っていき、火難に逢った際、草を切り払って 助かったと云うことから、草薙剣と呼ばれるようになりました。 天津彦彦火瓊瓊杵尊が降臨する際、天照大神からこれら3種の神宝を授けられて降臨したと云うことから、皇位の象徴とされています。但し、この様な象徴化は中世以降のことです。 現在の皇室典範では皇位継承に際して、これら3種の神器を継承することが記されています。 又、平氏が都落ちの際、これらの神宝を持ち出した事が、「玉葉」「清蓮院文書」「源平盛衰記」等に記されています。 鏡は大納言、平時忠が保持し、勾玉は箱に入っていたので海に浮かび、それぞれ取り戻されたのですが、剣は壇ノ浦に沈んだと伝えられています。 現在、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、勾玉は宮中に保管されています。 鏡、剣は複製と云われています。上記の記述は、そういう話に関する小考です。 |
鏡、剣、勾玉、の3種を飾るというのは、神道の習慣でもあり、 榊(さかき)の木に掛けて、神前に飾ります。 景行記や継体記では、この様な飾り方をする事が記されています。 神社の神殿には、今では鏡が必ず中心に置かれています。 通常の参拝はこの鏡に対して行っているわけです。 氏神社(血縁一族の祖先を祭る特別な神社)では、祖先の名を記した木製の神譜がこの鏡のそばに置かれ、鏡ではなく神譜に対して参拝しますから、こちらの方がより原初的だと思います。 鏡はこれら神譜の右代表としての象徴だと云えるでしょう。 神霊を○○柱と数えたり呼んだりするのは、この事から来ています。 伊勢神宮の内宮の中心も、檜の柱です。心の御柱と呼びます。 神霊は樹木に宿るというのが、原初的な姿だと考えられます。 |