古代吉備
神武東遷時期の吉備は、出雲支配下もしくは密接な関係にあり、
吉備津彦達は、天日矛の系譜で、敦賀・丹波から南下し、
東西に勢力展開した。
その流れの中で、吉備津彦達は、備前から進入し、出雲にまで勢力展開していった。
という風に、私は考えています。

☆根拠の一つ
延喜式内社、『丹生神社』…「丹生津彦命、丹生津姫命、配神:吉備津彦命」
兵庫県城崎郡香住町浦上

吉備・美作・伯耆の辺りは、元来出雲の勢力圏で、備後は北九州の影響を受け、
備前は大和の影響を受けてきます。
それが崇神の頃から始まるとは考えられます。
しかし、ヒミコに絡むような場所というのは、備前・備中にはなく、
せいぜい備後の神辺町でしょうが、かなり難しい論だと思います

吉備地方が勢力を強めた背景について、
私の考えを記しますと、これは、備前地方で良質の砂鉄が得られるようになったのが
始まりではないかと考えています。

ただ、備前地方より、備中地方(つまり岡山平野ですが)の方が
農業生産の面では有利であったため、人口集積が生じ、
それが巨大古墳成立の背景になったのであろうと考えています。

備前地方は吉井川下流域地方に当たりますから、黄鉄鋼で有名な柵原鉱床の砂鉄が流出した
ことは十分考えられると思います。
時期的には、3・4世紀と云ったところではないかと考えている次第です。(ヤマタイ国時代よりはやや後)
チタン含有の問題は専門家ではないので、何ともいえませんが、
砂鉄だからチタンが多いというのはやや短絡的で、問題は砂鉄の元となる鉱床の成分だと思います。
確か、備前地方には磁鉄鉱床もあったように記憶していますので、
砂鉄として収集した際には、混合することが考えられます。

長船町で刀剣制作が盛んになったために、古来の精錬遺跡がそのまま転用され痕跡を残し難くなっているのではないかと
考えている次第です。

つまり、吉備勢力の元来の本拠地は備前地方と考えている訳です。
この産鉄加工を支えた森林資源として備北地方があり、そこで出雲勢力と軋轢が生じた
というのが、この地方に関する私の見解です。

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