古代出雲
出雲が大和の支配下に完全に入ったのは6世紀後半です。
これは、出雲地方の古墳形式の変遷を見れば解る事です。
大和勢力が出雲に侵入したと思われる形跡は、
古いものでも4世紀末で、大きなものではありません。
5世紀末に吉備方面の勢力が侵入し、出雲との文化的融合が一部観られます。
以後、出雲内部の抗争の後、6世紀末になって、大和勢力の支配を受けるようになっています。
この間、出雲は一定の独立性を保ち続けています。

出雲における古墳の特徴は方墳であることは云うまでもないことです。
出雲における円墳や前方後円墳は、これらに比して時代が新しく、上記の裏付けとなります。
よく云われる論に、出雲の原卿は山城国出雲郷だというものがあります。
結論から先に云えば、全くお話になりません。
出雲を歩いたことのない人がこんな事を平気で云います。
「出雲国風土記」と記紀の出雲神話に共通部分が少ないというのがその理由のようです。
つまり、記紀は正史で、「出雲国風土記」は捏造書だというのです。
これに対する反論は一言で終わりです。

「国引き伝説は、島根半島が古代において島であったという、地理学的事実に基づいている。」
山城国出雲郷が出雲源郷なら、このような伝説は生まれようはずがありません。
陰暦10月、全国は神無月になります。
出雲に全国の神様が集まるわけです。

10月10日から17日まで一週間、「出雲大社上宮」で、大国主尊を中心に、
集まった神様の会議が行われ、
その後、松江北方の「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神)主催の宴会が行われ、
26日には斐伊川河畔の、「万九千社」から各地に戻られます。
唯一、諏訪大神だけは、出雲に来られません。

出雲地方の人たちは、この間、御忌みに入ります。
歌舞音曲を止め、神様に迷惑を掛けぬよう、庭さえ掃かないで、
静かに日々を送ります。

古代出雲が、緩やかな連合体であった事を表していると云えるでしょう。
神々の会議は、時期を考えると、稲刈りが終わり、各地の収穫祭を終え、
その情報交換に出雲に集まっていたのだと思われます。
支配被支配の関係であったならば、御忌みも、佐太大神による宴会なども無用だからです。
出雲と云うとき、狭い意味では、現在の大山から三瓶山の間の地域を指しますが、
この範囲でも、幾つかの小地域に分けて考える必要があります。
東から云うと、安来、松江南、出雲市、横田、加茂、佐田、
島根半島方面では、弓が島、北浦、加賀、鹿島、松江北、平田、十六島湾、などです。
出雲における氏族を考えると、今では大半が出雲大社宮司家中心に集約されていますが、
元来は幾つかの氏族が成立していたようで、熊野神社、美保神社、佐太神社、粟島神社、
須我神社、能義神社、知井宮、須佐神社、神魂神社等が古社であり、
それぞれ出雲の各氏族の氏神社であったように考えられます。

出雲古氏族を考えると、足名椎の一族が最も古く、ついで素戔嗚尊の系譜があり、
一方で佐太大神の系譜があり、大己貴神の系譜、があり、最後に天之穂日の系譜となります。
つまり、少なくとも5つの系譜がある訳で、出雲を単一の部族集団と見ると誤ってしまいます。

更に細かく見ると、神社系列では、伊弉諾尊と伊弉冉尊の系列は別個に存在し、
月讀命の系列、少彦名命の系列、五十猛の系列、物部一族の系列、秦氏の系列なども別個に
存在しています。

以上で解ることの中で、出雲の特長として、天照大神を主祭神にした神社が無いという点が重要です。
唯一の例外として、大田市に「山辺八代姫命神社」というのがあり、
ここの主祭神が天照大神とされていますが、これは後世の付会にすぎず、
私の見るところでは大屋彦の御子神です。
出雲の東国への影響は、日本海側、秋田までは確認できてます。青森・岩手は不明。

越は、記紀ではかなり漠然とした地域です。つまり、長く関西大和に属していない地域。
時期によって、変動もあるようです。
素戔嗚尊の頃は越の八俣の大蛇と戦っているので、越と出雲は敵対関係にあったのでしょう。
越方面で稲作が出来なかった時期に、出雲に穀物の略奪に来ていたのだと思われます。

大己貴神の頃、越のヌナカワ姫と姻戚関係を結んでいますから、
糸魚川流域方面と関係が出来たのはその頃でしょうか。
糸魚川は、玉の原料である翡翠の産地であることから、利害が一致したのでしょう。

越と連合が成立し、一方で北九州との連合も成立していたので大己貴神は大国主尊と呼ばれたのでしょう。
その後継者は大国主という職名を称していたと考えられます。
出雲にとって国として大事なのはあくまでも日本海側。

その後、富山湾方面から崇神が侵入。
更に、その後若狭湾方面には日矛が侵入。
で分断されたのではないかなと。
崇神が侵入した頃、饒速日の一族つまり後の物部氏ですが、関西大和から離れ、
尾張から一旦北上し、新潟方面まで行き、それから南下して、征討していき、
石見大田に落ち着いたという事でしょう。
崇神前、欠史8代の時期は、関西大和は出雲配下で尾張氏と饒速日一族の連立時期
神話、神社縁起から推察すると、こんな感じです。

箸墓の問題はこの様な背景を勘案して考えるべきでしょう。

出雲地方の発展は、飯梨川(能義大神)や斐伊川下流域(大己貴神)の開発が進んでからで、
素戔嗚尊の出雲地方での縁起地は山間部であるので、出雲が大国となったのは大己貴神の頃からでしょう。

link出雲大社のホームページ
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