伝承収集について
古代史を考えるには、必ず資料が前提となります。
資料無しで考えても、それは創作あるいは小説にしかなりません。

資料は、その確度(確実さの程度)で採用の程度が違ってきます。
普通、資料は1品、2品、3品、と分けられます。
1品は確度の高いもの
2品は参考にしうるもの
3品は確度の低いもの
 と位置づけられます。
各品も上中下と更に細かく分類されます。
1品の上といえば、非常に重要で確度の高いものです。
これは、金石文つまり、金属器に記された文字や石碑に残された文章などがこの位置に来ます。
1品の中には、古事記・日本書紀などが当てられます。又、考古学上の発掘物もここに来ます。
1品の下には、やや確度の低い文書、例えば元興寺縁起などが来ます。
資料の位置関係を間違うと、珍説奇説が現れ百家鳴争状態となります。
これでは古代史を明らかにしようとしているのか、混乱させようとしているのか解らなくなります。

逆に言えば、ある資料に基づいてそれを中心に論を立てようとする場合には、その資料が1品の価値を持つことを証明する事が前提になるのです
多くの珍説奇説はこの前提を無視して提示されています。
私が古代史に興味を持ち始めて20年以上経ちますが、記紀を読み始めた当初、1品資料とされる古事記や日本書紀だけでは、解決のつかない問題が多くあることが解り始めました。
繰り返し読めば読むほど疑問が増すばかりでした。
それで、その後しばらくは、正史から偽書扱いされる古史古伝に興味を持ち読みあさりましたが、それでも混乱は増すばかりで、何の解決も得られませんでした。
この間、色々な人の著作も読みあさりましたが、「帯に短し襷に長し」で、結局、書物の紙の上の話しでは、論理整合性だけしか検証できないことに気づいたのです。
裏付けとなる事物の必要性を感じたのです。
それがフィールドワークの始まりでした。
先ず、記紀記載の場所に実際に出かけてみる事。記載内容を確認していく事から始めました。
そうしてみると、出かける先で、色々な人から、逸話を聞くことが出来ます。
その逸話を参考にして、記紀を読み返すと、疑問だった点が次第に明らかに出来ることが経験できました。それが、伝承集めの始まりです。
又、実際に出かけてみると、多くのいわゆる「古代史論者」の方々の著述内容が、現場と異なり、
又聞き・引用と思われる事実にも出くわしました。
伝承の資料価値は2品だと考えています。
つまり1品資料の補則価値しかないということです。
伝承というのは、玉石混淆状態で、これを私の場合、1級から5級まで5等に分別しています。
ある伝承を見聞したとき、まず最初に3級に位置づけます。
関連伝承や、1品資料との関連が濃ければ、等級を上げ、矛盾があれば等級を下げます。

伝承を見聞したとき大事なのは、その伝承の出所環境です。
特に、出所近郷に、古代史家やいわゆる古神道派、日蓮宗寺院等があった時は要注意とし、等級を4級から始めます。
古代史家や古神道派のある場合、原伝承に手が加えられていることがほとんどだからです。
話しが出来過ぎている訳です。
日蓮宗寺院がある場合、神話・伝承の教義への取り込み、再布教が行われていることが多いからです。

基本的処理方法は以上の様なものです。
私が伝承として紹介するとき、1級から5級までの区別は、その紹介表現でご判断頂けると思います。
出所に対する礼もありますので、等級の付記はしませんが、
単に「○○という伝承があります」と記すのは3級です。
「あるそうです」「ありますが、私は疑問視しています」と記すのは等級が低いものです。
記紀や他の伝承と絡めて紹介するときは、等級が高いものです。
又、1品資料間に矛盾があり、関連伝承の確度が高いと判断したものについては、1品の下として、2品以上の位置を与えます。

等級の低い伝承は原則として紹介しないようにしています。
古代史についてのアウトラインは、私の中ではこの様な経験を踏んで出来上がりつつありますが、最近では、消えゆく伝承の保存の必要性も感じています。
戦後、人の移動が激しくなり、伝承が伝わらなくなってきています。
私の判断や考察を加えない形で、玉石混淆状態のまま伝承を資料化し保存しておく必要もあると
考えています。
伝承の多くは高齢な方達からの伝聞ですから、時間との競争の面もあり、やや焦り気味です。

この稿を読まれた方には、是非地元伝承の収集保存に協力していただきたいと願っています。

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