《漢字の伝来》
《和邇》
漢字の日本伝来については、かねて古事記の記載が根拠とされてきた。
即ち、応神記に、
「名和邇吉師、即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進」とあるのが、それである。
百済照古王の時と記述される。
この照古王は、百済6世近肖古王(346〜375在位)とされるから、4世紀中頃の伝来と考えられている。

ところが書紀では、漢字伝来の記述はなく、古事記の対応記事は、
応神記16年に、「十六年春二月王仁來之、即太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。」とあり、その前段では
応神記15年で、「阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉」とあり、不明である。

《倭の朝貢記事》
57年倭奴国、後漢光武帝に奉献朝賀
107年倭面土国王帥升等生口160人を後漢安帝に献ず
239年卑弥呼が「親魏倭王」の称号と、金印、銅鏡100枚を得る
等記載がある。
例えば57年朝賀の儀は、通常、上表文を読み上げることによって行われる。
という事は、この頃既に、通訳若しくは尚書のようなものが倭奴国にはいたはずで、
中国漢字文の読み書きが出来ていたはずである。
(この為か、平凡社世界大百科辞典では漢字の伝来は1世紀頃と記している)
by「風姿」
漢字の伝来は、通説より古いと考えられる。
紀元前と考える事も可能である。
列島各地に徐福伝承が残っているが、これは秦の始皇帝の時期の話である。
徐福は当然漢字使用に通じていたはずであるから、この伝承が事実なら、漢字伝来は紀元前200年頃という可能性も
出てくるのである。
又、倭人が、呉王大伯の裔を称していたという伝承に可能性を見いだすなら、漢字伝来は更に古い時代のことになる。

では、何故日本に漢字が伝来したのが4世紀中頃とされ、更に、古事記編纂に際して、稗田阿礼を用いたのであろうか。
私は此処に、焚書が行われたことを感じるのである。

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